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第一回/重森が人類学を学ぶ理由
わたくし重森誠仁は、よく、周囲の人々に「思い込みが激しい」「勘違いが激しい」「思考が歪んでいる」「ねじれている」というご指摘をいただきます。私なりに必死で考えて、その結果口に出したことが、周囲の人々にとってみれば「場違いで」「はずしていて」「お前の頭どーなってんの?」的な内容のものであったりすることが、頻繁にあるようです。  

一般的に言って、「思い込み」の激しい人は、人の話を聞かないことが多いように思います。「思い込み」の激しい人は、他人の言動のすべてを、自分の「思い込み」にもとづいて、解釈しまくるのではないでしょうか。例えば、次のような受け答えを「思い込み」の激しい人はするかもしれません。

■思い込み野郎と可憐な美少女vol.1

思い込み野郎:「ねえ、今度の日曜、一緒に映画見に行かない?」

可憐な美少女:「ごめんなさい、その日はちょっと用事があるの。」

思い込み野郎:「いいんだよ恥ずかしがらなくても。正直に喜んでもいいんだよ。用事があるというのは嘘でしょう? 君は本当は嬉しいのに、恥ずかしいから、そんな嘘をついているんだよね?」

可憐な美少女:「……?」

思い込み野郎:「僕には分かっているよ。それじゃあ、日曜の朝6時に国立駅の南口のベンチで待っているからね(傘をくるくる回しながら去っていく)。」

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気持ち悪い! この思い込み野郎!   

話をもとに戻しますと、いわゆる「思い込みが激しい」と呼ばれる人たちは、このような会話を平気でする奴だ、と私は考えているわけです。  

私はこんな人間にはなりたくないです。なぜなら、「常識的」に考えると、このような「思い込み野郎」とみなされることは、社会生活を行なっていく上で、致命的な障害になると思われるからです。かなりの確率で人に嫌われるのではないでしょうか。  

そこで私は上記にあげたような「思い込み野郎」とは一味違うことを示すために、日々、自分が何を思い込んでいるのかについて、注意を払っています。いつも自分の感受性を疑っています。自分の頭に思い浮かんだ判断や感覚を、頑張って出来るだけ疑ったうえで、発言をしようと努めています。  

しかし、なかなかうまくいきません。やっぱりどこかずれているようです。  

私は、自分が思い込みの激しい人間であることを、周囲の人々からことあるごとに指摘されているので、「きっと本当にそうなのだろう。私は「思い込み」が激しいに違いない」と「言葉の上では」自覚しています。しかし、相変わらず私は日常生活やゼミ中の議論の場において、「思い込み」を炸裂させているようです。頭の中では「自分は思い込みが激しい」と理解しているつもりなのですが、実際に会話をすると、「思い込み」を連発させているようです。  

周囲の人々に「今の発言ちょっとずれているよ」と言われるたびに、私は「今、自分は何かを思い込んでいたらしい。さて、それでは一体何を思い込んでいたのだろう」と考え込みはじめます。考えるのですが、この作業は時間がかかるので、いつしか私は周囲の人たちの話の輪から完全に離れてしまいます。ですが、気がつくといつのまにか話をふられていたりして、私はとっさに、話をふられる直前に断片的に耳に入ってきた情報をなんとか組み立てて、なにごとかを言うわけです。すると、この発言が再び「場違いでずれている」ことが頻繁にありまして、そこを再びバキュンと周囲に突っ込まれ、そしてさらに再び「どこで思い込んでいたのか」考え込んでしまうという、悪循環に陥ってしまうのです。  

こんな私にたいして次のような助言をしてくれる方も中にはおります。  

「いいじゃん。みんな実はそれぞれなんらかの「思い込み」の中で生きているんだよ。「思い込み」をしているのは、皆も同じで、その度合いが異なるだけだよ、心配すんなって。」  

「思い込みが激しい」と頻繁に指摘される私にとって、誠にありがたいお言葉です。  

しかし、やっぱり、「思い込み」が激しいと、問題が多いように思います。なぜなら、人に迷惑をかけるのもいただけないですが、なによりも私自身がどんどん不幸になっていくように感じられるからです。  

ぶっちゃけた話。実は私は人が怖いです。怖くて怖くてたまりません。基本的に「自分は嫌われている。憎まれている。敵意をもたれている。」と最初からしっかりと感じてしまっているので、道を歩くにもいちいち緊張するわけです。  

一番つらかった時期は、高校時代でした。道を歩いている最中に、あまりの緊張で歩けなくなってしまうのです。何回かこけました。そして授業中は、あまりの緊張で頭が真っ白になってしまって困りました。ついでに目は痙攣するし、腕は震えるし、二次関数の平行移動どころではなかったです。大変でした。  

こんな私の話を聞いて、「それはあんたが自意識過剰なだけなんだよ。嫌われるという恐れは、好かれたいという思いがあるからこそ出てくるんだよ」と諭してくれる人がいました。しかし、そういう人たちは、説教することだけにとどまってしまって、どうしたら自意識過剰を改善できるのか、その具体的な処方箋は教えてくれません。「嫌われるという恐れは、好かれたいという思いがあるから生じるのだ」と言われたところで、事態は何も変わらなかったです。説教するんじゃなくて、緊張を取り除く具体的な作戦を教えて欲しい。どうしたらこの苦しみから逃れられるのか教えて欲しい、と心理学の本を読みつつ私は常々思っていました。  

そこで私は大学時代に、自分を治すべく様々な方法を試しました。学生相談室に通って、自律訓練法という技を習ったり、大学の心理学の授業で催眠法を習ったり、アダルト・チルドレンの自助グループに参加してみたりと、いろいろやりました。精神科に行って薬をもらい、飲んでいたときもありました。  

しかし、やっぱり根本的な解決にはなっていないのではないかと思ったわけです。とにかく出来る限りのことはしてみたけれど、なにか肝心の問題を見過ごしているのではないか、もっと掘り下げて考えてみるべき核心を見過ごしてしまっているのではないか、と思い立ったわけです。  

人類学という学問に飛びついたのは、そんな頃でした。  

人類学という学問にも、さまざまな種類があるのですが、私が注目したのは、人類学が、異なる文化に生きる人々に関する学問という点でした。もっと具体的に言い直すと、人類学は「虚構としか思えない現実を生きている他者に関する学問」です。傍から見たら虚構としか思えない「思い込み」に捕らわれている私にとって、人類学は「思い込み」の泥沼から逃れるためのヒント(処方箋)に溢れているように見えました。    

大学院に来て、人類学という学問を勉強しているのは、私自身がこのような問題を抱えているからです。さすがに、入試の面接のときにおおっぴらに「自分を治したいので貴校を受験いたしました!」と目を輝かせてハキハキ言ってしまうと、「こいつはヤバイ」と落とされてしまうこと確実なので、なんだかんだ理屈をこねて、なんとか滑り込みました。  

現在も他人は相変わらず緊張を強いてくる存在です。しかし、いちいちそのことで文句を言わずに、そのまま緊張するにまかせていろいろな雑事をこなしております。  

そして日々、議論の際に変な「思い込み」を炸裂させて、周囲の人々に不快感を与えるようなことは避けたいと思っています。  

また、自分の「思い込み」を相手に押し付けて、ものごとを進めてしまうようなストーカー野郎になってしまうのも避けたいです。  

上記の目標が達成できれば、周囲の人々の私にたいする評価は良いものになって、毎日が楽しくなると思います。私はひとえに、自分自身が幸せになるために、人類学を学んでおります。  

人類学の学問において、ひときわ異彩を放っているのが、グレゴリ―・ベイトソンという人類学者です。彼は、精神分裂病を引き起こす要因とされる、ダブルバインドという理論の提唱者として広く知られています。しかし、それだけにとどまらずベイトソンは、私が抱えている問題に関連する非常に有益な主張を、さまざまな論文において行っています。  

ベイトソンの業績の中でも特に「日常生活を送る上でこの考え方は非常にためになる!」と思って取りあげるのが、「分裂生成」という考え方と、「学習U」という考え方と、「物語」という考え方です。  

これからそれらについて見ていきたいと思います。




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