webマガジン「factree」ロゴ


第ニ回/分裂生成について

ベイトソンという人類学者が、重森が日常生活をしのいでいくうえで、ものすごく役に立つ研究をしている、ということですが、今回はいよいよ、その内容をしっかり見ていきたいと思います。

重森がこれから取り上げていく、ベイトソンの提唱した概念は、「分裂生成」という考え方と「物語」という考え方と、「学習U」という考え方です。これらをいっきに説明することはちょっと難しいので、じわじわと少しずつもったいぶってゆっくり見ていきたいと思います。

ていうか実は、「分裂生成」とか「物語」とか「学習U」とかいう、ベイトソンが作り出した考え方たちは、これらひとつひとつが独立して、完結して存在している考え方ではない、と重森は考えております。「分裂生成」という考え方を、ひとつの要素としてその内部に含み込む「大きな見取り図」のような考え方がある、と思っています。この「大きな見取り図」をいっきにお見せするほうが、絶対面白いのですが、あとあとからズシンと胸にくるように、ちょっとずつちらりちらりと、その「大きな見取り図」の構成要素、ひとつの部品、パズルの断片にあたるもの、すなわち「分裂生成」とか「物語」とか「学習U」とかを、順番に見ていきたいと思います。

この作業は、ベイトソンの論文の概要を述べていくかたちになるので、かなり読むのが億劫になってくると思います。そこのところをご理解していただき、お付き合いしてくだされば幸いです。段取りとしては、ベイトソンの著書『精神の生態学』に収納されている論文を読みつつ、上記に列挙した考え方について説明させていただいたのちに、この考え方がどのようにして重森の日常生活と関係しているのかを(連載のむっちゃ後半の方で)述べていきたいと思います。

今回は「分裂生成(ぶんれつせいせい)」という考え方を、見ていきたいと思います。

分裂生成とは、重森が理解している限りでは、次のように言うことができると思います。

「ふたりの人間またはふたつの集団の間に、溝ができていくこと」

もっとぶっちゃけて言えば、「人(集団)と人(集団)が対立していくこと」「人(集団)と人(集団)の仲がどんどん悪くなっていくこと」というような言い方ができると思います。ベイトソンは「(集団と集団、人と人)の相互の分化ないし分裂の一方的な進展──これを私は「分裂生成」schismogenesisと呼ぶ」(ベイトソン 2000:125)と言っているので、上記に示した重森による分裂生成の定義は、そんなに間違ってはいないと思われます。

分裂生成は英語だとschismogenisis(シズモジェネシス)と発音します。この音の響き、なかなか格好いいと思います。なにかの必殺技という感じがします。

さて、この分裂生成という考え方なのですが、ベイトソンによると、これには、2つのタイプがあるそうです。「人(集団)と人(集団)の仲がどんどん悪くなっていく」には2通りの方法がある、ということだと思われます。そのタイプの一つが「対称型の分裂生成」で、二つ目が「相捕型の分裂生成」です。

まず、一つ目の「対称型の分裂生成」について説明していきます。

これは、ふたりの人間が、お互いに同様の行為を示してしまい、どんどん仲が悪くなっていく、というようなケースです。例えば、このケースの例として、ベイトソンは「自慢」という行為をふたりの人間がお互いに示し合うことをあげています。「自慢」という行為をお互いに示しまくっていくうちに、二人の間にのっぴきならない溝ができていく。ベイトソンは次のように述べています。

「自慢とは自慢に対する反応だとすると、このとき、互いが互いを駆り立てるようにして、ますます自慢的な行動をとっていくというプロセスが進行しがちである。そうした「分裂生成」が始まると、何らかの歯止めがはたらかないかぎり、お互いへの敵意が一方的に高まってシステムが瓦解することは、いずれ避けられなくなる。」(ベイトソン 2000:125)

次に、二つ目の「相捕型の分裂生成」について見ていきたいと思います。

これは、「対称型の分裂生成」とちょうど正反対のケースだと言えます。「対称型の分裂生成」のケースでは、ふたりの人間がお互いに、同様の行為を示し合っていましたが、「対称型の分裂生成」では、ふたりの人間がお互いに示す行為は異なっています。たとえば、人物Aが「強圧」の行動を示し、人物Bが人物Aが示した「強圧」の行動にたいして「服従」の行動を示していく。そしてこれが繰り返されると、このようなやりとりが固定化されてしまい、次第に二人の間に溝が生じていく。ベイトソンは次のように述べています。 「(「強圧的」な行動を示す人と「服従的」な行動を示す人がいると、)「服従」が「強圧」を促進し、それがまたはね返ってさらに「服従」を促進することになりやすい。この型の分裂生成も、抑制がはたらかなければ、双方の集団成員の性格をそれぞれの方向へ歪めていき、両者間の敵対性を強めて、ついには関係システムを崩壊に導くものである。」(ベイトソン 2000:126)

書いていて疑問が浮かびました。関係システムってなんだろう、と書いているうちに思ってきました。うーん。ひとまず保留。人と人の間柄、人間関係、というふうに捉えておけばいいのかもしれません。

ちょっと話がわき道へそれました。分裂生成の話を続けたいと思います。以上に見てきましたように、分裂生成それ自体はあまりいいものではないと言えます。

対称型の分裂生成は、やったらやりかえせとハムラビ法典的反応をお互いに繰り返していくうちに、二人の仲がどんどん悪くなっていく、という日常生活上でよくみかける状況です。このようなやりとりは、メーリングリストや掲示板といった不特定多数の人間が読み書きするような場所でよく見られる風景だと思われます。また、むこうが仕掛けたからこっちも報復するもんね、とばかりに爆弾を落としまくっている国も、対称型の分裂生成まっしぐら、だと言えると思います。

そして、相補型の分裂生成も日常生活上のさまざまな人間関係において見られる状況だと言えます。「養育」対「虚弱」、「強圧」対「服従」といった行為のセット、やりとりの形が観察できる状況は、いたるところにあるのではないでしょうか。たとえば、過保護で過干渉な親とその子供である良い子、いじめっ子といじめられっ子、といったペアがそうです。上記にあげた「養育」対「虚弱」、「強圧」対「服従」といった行動のペアを、固定的に分担して示し合う間柄では、いずれストレスが爆発して分裂生成が起きてしまうと考えられます。

このように、分裂生成は良くないものだと言えます。ベイトソンは分裂生成を食い止めるために、次のような作戦を勧めています。対称型の分裂生成が起きている状況があるときに、どっちかの人が相捕型の行為をしてみる。または、相補型の分裂生成がおきている状況において、どっちかの人が対称型の行為をしてみる。ベイトソンはこのような作戦を、「交換型の関係」と呼んでいます。たとえば、「強圧」にたいして「強圧」で反応するのではなく、「服従」で反応してみる。そしてさらに、毎回同じ人物が「強圧」を示すのではなく、たまに「服従」も示してみる。

「対称型の関係にごくわずかな相補的行動を混ぜるだけで、また相補型の関係にごくわずかな対称的行動を混ぜるだけで、著しい緊張緩和と関係の安定化が得られるものである。」(ベイトソン 2000:128)

たとえば、「強圧」対「服従」の「相補型の分裂生成」の状況にいる村の領主と村人というペアがいたとすると、年に一回でもいいから、村の領主が村人とともに、村のクリケット大会に出場して、やったらやりかえせ的な関係、つまり、対称的な関係を結べば、彼らの間に蓄積されていた緊張は一時的に解消される、とベイトソンは言っています。

しかし、この「交換型の関係」の導入という作戦は、ちょっと無理な作戦ではないかと重森は思ったりします。「ん? 村の領主に遠慮して、クリケット大会においても村人は服従的な態度を示すのでは?」という疑問が浮かびます。さっぱりしたイケてる村人なら、さわやかに領主としっかり対称的に張り合えるということなのかもしれません。しかし、村人に奴隷根性が染み付いていたり、領主にお山の大将的根性が染み付いていたりすると、せっかくのクリケット大会においても相変わらず「強圧」対「服従」の関係が維持されていくのではないでしょうか。

ベイトソン自身もこの作戦がうまくいくかどうかは断言できないでいるようです。そのため、次のようなことを言っています。

「交換的なファクターが、対称的・相補的なファクターによる分裂生成を事前に食い止め、関係の安定化をもたらす働きをするということも、考えられはする。しかし現実には、これは防御としてあまりに頼りない。対称型の分裂生成の中で、かつては盛んだった交換的交易が最低の線まで落ちてきている。一方、相補的な分裂生成が起こるときも、交換的な行動は容易に吸収されてしまうようである。もともと両集団ともx・y両方の行動を取っていたとしても、関係の相補性が強まるにつれて、それぞれの集団から片方の行動が抜け落ちていってしまうのだ。つまり一方の行動が一方の集団に偏っていく方向へ関係システム全体が動いていってしまう。そもそもは交換的にふるまっていたものが、典型的な相補のパターンに陥り、相補型の分裂生成をきたしていくというのは、関係がたどるひとつの自然な道筋だともいえそうである。」(ベイトソン 2000:128)

上の引用に関連して、ベイトソンは、「結婚当初は交代で食事を作るというような工夫をして、「交換型の関係」を作ろうと試みてきた夫婦が、しだいに「あなた作る人、私食べる人」というような相補的な関係に落ち着いてしまうことが結構ある。」というようなたとえ話をしています。「相補型の分裂生成」を食い止めるべく、ふたりで家事を交代でこなし、「交換型の関係」を作ろうとしたのに、いつのまにか「相補型の分裂生成」に陥っていく。なるほど。確かにこういうことってあるある、と思います。

いままで話してきたのは「相補型の分裂生成」を食い止めるために、対称型の行動を努めて示して、「交換型の関係」を作り出すというものでした。しかし、ベイトソンは「対称型の分裂生成」を食い止めるために、相補型の行動を努めて示して、「交換型の関係」を作り出すということに関しては、具体的な例を出していないように思われます。

先の引用の中でベイトソンは「対称型の分裂生成の中で、かつては盛んだった交換的交易が最低の線まで落ちてきている。」としか言っていないので、きっと、バリバリ対称型の分裂生成につっぱしっているお二人を食い止めること自体、至難の業なのでしょう。確かに、喧嘩している二人の人物を止めるのはそもそも無理な話のように思います。飛行機ぶつけられたから爆弾落としている人を説得するのは無理なように思います。

分裂生成を食い止める方法はないように思われます。しかし、ベイトソンはもうひとつの作戦を提示します。分裂生成を起こしている二人の人物のなかに外部からもう一人の人物が入っていき、二人の注意をその人物に向けさせるという作戦です。

「対称・相補のどちらの分裂生成も、両集団を結束させる要素や共通の外的要素があるときには、その進展が抑制されることは間違いない。ここでいう「外的要素」とは、象徴的な意味を持つ人物であっても、敵の集団であっても、天候などの非人間的状況であってもいい。激しい雨のもとでは「ライオンも子羊と寝そべる」わけだ。」(ベイトソン 2000:129)

ところがしかし、今度は分裂生成を食い止めようと入ってきた外部の人物と、当の分裂生成を起こしていた二人との間に、再び分裂生成が生じてしまう危険性があるので、この作戦も完璧な作戦ではないということになります。

分裂生成を食い止めることは不可能なのでしょうか。ベイトソンは、今後の課題としてこの問題について次のように述べています。

「軍隊などの階層の中間層に属するものは、上官に対する場合と部下に対する場合で、敬意とプライド、服従と威張りとの切り替えを行っている。そのことが、彼らの性格が一方向に固まることをどのように抑えているのかということを知るのは必要なことだ。」(ベイトソン 2000:129)

中間管理職の人は実はすごい奴なのでは、とベイトソンは彼らに希望の眼差しを向けているようです。上司には敬意をもって対応し、かつ、服従し、部下にはプライド(=自尊心?)をもって対応し、かつ、威張る、という中間管理職の技能にこそ、分裂生成を食い止めるヒントが隠されているようです(重森は個人的には中間管理職の人はとても大変だと思っています)。

以上、ながながとベイトソンの論文「文化接触と分裂生成」から、分裂生成という考え方について概観してきました。ベイトソンは超不毛な喧嘩をなんとかして止めさせることはできないだろうか、と考えて、このような論文を書いたと重森は考えています。

また、超不毛な喧嘩に陥る人間がもつ性質、すなわち、人間とはどのような生き物か、という問題について突っ込んで考えた結果、このような論文が生まれたのではないかとも思っています。ベイトソンの次の言葉が、このことを裏付けていると思われます。

「階級間や国家間の政策を推進するものが、集団間に起こっているプロセスとそれに対する自分たち自身の関与のしくみを把握した上で、問題の解決に当たることは可能である。ただ現在の文化人類学や社会心理学に、政策に助言を与えるだけの信望がない以上、これは現実にはきわめて起こりにくい。専門的助言を欠いたまま、政府同士が、広く状況に目を向けることなく、お互いの反応に対して反応しあうばかりの状況が続いていくと見る方が、残念ながら妥当である。」(ベイトソン 2000:129)

なんかあんまりちゃんと理解できてない箇所があったのですが、とりあえず分裂生成については説明完了ということにしたいと思います。次回からは「物語」と「学習2」という考え方について見ていきたいと思います。

参考引用文献

グレゴリー・ベイトソン,2000(1972),「文化接触と分裂生成」,『精神の生態学』,佐藤良明訳,新思索社




ページ上部へ
コンテンツトップへ