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第四回/コンテクストについて(その2)

みなさまお元気でしょうか。重森です。今日は「物語」という言葉と「学習2」という言葉について見ていきたいと思っていたのですが、これらに関して説明することはまだまだ先に延ばして、「コンテクスト」について今日も見ていきたいと思います。前回は、かなり理解しづらい説明をしてしまったように思います。

前回では、「分裂生成が生じるメカニズム」を明らかにするための前段階として、「コンテクスト」という言葉について解説させていただきました。「分裂生成」とは「人と人の間に溝ができていくこと」ということなのですが、このような現象が起きるには、「コンテクスト」という考え方を押さえておく必要があるということでした。そこで、前回では、事象(他人の言動とか、空の青さだとか、猫の泣き声だとか、もうなんでもかんでも)を理解する際に、必ず参照される「関係付け方の見本」として、「コンテクスト」というものを紹介させていただきました。

重森は、「関係付け方の見本」という言葉と「コンテクスト」という言葉を、同じ意味を表すものだ、と説明しました。そして、例え話として、「英単語は周囲の単語とのつながりを押さえなければ訳せない」という話と、「言葉足らずのセリフを言ってしまい恋人と別れてしまった男」の話をしました。どちらの例え話も、事象(他人の言動とか、空の青さだとか、猫の泣き声だとか、もうなんでもかんでも)は、独立してそれだけで理解されるのではなく、必ず他の事象と「関係付けられて」理解されるということを示しています。別の表現で言い換えますと、なんらかの事象を前にした人は、自分だけが参照することのできる「コンテクスト」にもとづいて、その事象の意味を理解する(しかない)、ということになります。

このことを前回で紹介した「思い込み野郎」の事例をとりあげて、具体的に見てみますと、次のようになります。男は恋人に「別れよう。ひとりの人をずっと好きでいられるなんてできないよ」と言いました。すると、男が恋人に言った「別れよう」という発言と「ひとりの人をずっと好きでいられるなんてできないよ」という発言は、「他に好きな人ができた」という意味と結び付けられ(関係付けられ)て、恋人に理解されました。もっと正確に言いますと、「ひとりの人をずっと好きでいられるなんてできないよ」という発言は、「他に好きな人ができた」という意味に変換されて、恋人に理解されました。そして、最終的に「男には他に好きな人ができた。だから今、別れを切り出してるのだ」という因果関係の文章の形で、男の発言は恋人に受け取られることになりました。

恋人は自らが保持する「コンテクスト」つまり「関係付け方の見本」に、男の発言を引き入れたうえで、もしくは、マッピング(配置)したうえで、理解したといえます。マッピングという言葉を使うと意味が分からなくなると思いますが、次のように考えればよいかと思います。つまり、

男の発言 = 「別れよう」・「ひとりの人をずっと好きでいられるなんてできないよ」

が恋人に提示され、恋人は、下記に示すような「関係付け方の見本(コンテクスト)」のリストの中から、「「他に好きな人ができた」から「別れる」」という「関係付け方の見本(コンテクスト)」だけを選択し、男の発言を、この「関係付け方の見本(コンテクスト)」にマッピング(配置)することによって理解しました。

■恋人が「動員可能な「関係付け方の見本(コンテクスト)」」のリスト(のごく一部)

1、「あなたにあきた」から「別れる」

2、「他に好きな人ができた」から「別れる」

3、「1人になりたい」から「別れる」

4、「依存している」から「別れる」

5、「私はもうすぐ死んでしまうような病気だ」から「別れる」

6、「占いのお告げが別れろと示す」から「別れる」

7、「宗教上の制約がある」から「別れる」

上記に示した「動員可能な「関係付け方の見本(コンテクスト)」」は、なんらかの事象を理解するために参照されるものです。このようなリストを事前に保持していないと、なんらかの事象を目の前に出された時に、人は何も理解することができないと思われます。「思い込み野郎」の例え話においては、恋人は「「他に好きな人ができた」から「別れる」」という「関係付け方の見本(コンテクスト)」を採用して、この「関係付け方の見本(コンテクスト)」に、男の発言を埋め込んで(マッピングして)、男の発言を、「男には別の好きな人ができた」から「別れを切り出しているのだ」という意味に理解したといえると思います。

この場合、「別れる」という発言は、けっして「吉野屋は安くてうまい」という項目と結び付けられることはありません。「「吉野屋は安くてうまい」から「別れる」」、というような「関係付け方の見本(コンテクスト)」は、恋人が保持している「動員可能な「関係付け方の見本(コンテクスト)」」のリストには存在していないからです。

「別れる」という言葉を耳にしたときに、上記のような「動員可能な「関係付け方の見本(コンテクスト)」」を既に持っている人が当然のようにして「別れる」という言葉と結び付ける項目は、「他に好きな人ができた」や「あなたにあきた」でしょう。もしかすると、「1人になりたい」という項目とも結び付けられるかもしれません。そしてたとえ保持していたとしても、「別れる」という発言と「ひとりの人をずっと好きでいられるなんてできないよ」という発言を耳にしただけでは、すぐに「「占いのお告げが別れろと示す」から「別れる」」とか「「宗教上の制約がある」から「別れる」」という「関係付け方の見本(コンテクスト)」が動員されることはないと思われます。なぜなら、これらの「関係付け方の見本(コンテクスト)」を参照するよう恋人を促すような手がかりが他に見当たらないからです。これらの「関係付け方の見本(コンテクスト)」も、決して参照されないことはないような「関係付け方の見本(コンテクスト)」ですが、これらが動員されるには、これらに関係した言葉を、男はもっと恋人に示す必要があると思われます。

また、もし仮に、恋人が参照することのできる「関係付け方の見本(コンテクスト)」のリストの中に、「「吉野屋は安くてうまい」から「別れる」」という「関係付け方の見本(コンテクスト)」しか入っていなかったならば、男の発言は、全然理解されなかったと思われます。

男は確かに「別れる」と言っている。この発言だけを聞かされたならば「「吉野屋は安くてうまい」から「別れる」」という「関係付け方の見本(コンテクスト)」を参照することによって、男の言わんとすることは理解できる。すなわち恋人は「そうか、男は吉野屋が安くてうまいから、今別れを切り出しているのだ」と納得して、静かに頷くことができます。しかし、男は「ひとりの人をずっと好きでいられるなんてできないよ」という別の発言を、「別れる」という発言に続いて述べています。恋人にとって、このもうひとつの男の発言は、「別れる」という発言とどう結びつくのか見当がつかない突飛な発言、場違いな発言に見えます。そのため恋人は、怪訝な顔をして、男を見つめ返したかもしれません。恋人は、「あなたの言っていることの意味が分からない」と男に言ったかもしれません。

なんだか意味の分からない説明をしているような気がしまくりですが、ここで注目すべきことは、「別れる」という言葉が、「他に好きな人ができた」または「あなたにあきた」という項目と、関係付けられてしかるべきものとして、恋人が保持している「関係付け方の見本(コンテクスト)」が、存在しているということです。恋人が参照することができる「関係付け方の見本(コンテクスト)」は、「別れる」という言葉が容易に「他に好きな人ができた」や「あなたにあきた」という項目と結び付けられてしまう性格のものなのです。そのようにしか、恋人は「別れる」という発言の意味を理解することができない、ということなのです。

これがすなわち「コンテクスト」が「関係付け方の見本」と呼ばれる理由です。「結び付けられてしまう」と書くと、不正確で、実は、すでに最初から「別れる」という言葉は、「他に好きな人ができた」や「あなたにあきた」という文章と当たり前のように事前に結び付けられていて、そして、この出来合いの構図・筋道・プロット(=関係付け方の見本)に沿って、「別れる」という言葉が、理解されている、と、重森はさっきからまわりくどく申し上げているのです。

ベイトソンはこう言っています。

「関連するとは、AとBとが同一の“物語”の部分あるいは構成要素に収まるということと同じである。(中略)人間は物語によってものを考える。」(ベイトソン 2001:17)

ベイトソンは「人間は物語によってものを考える」と言ってます。この時の「考える」は「理解する」という言葉としてとらえてもいいと重森は思います。「思い込み野郎」の例え話でいえば、ベイトソンの引用のなかにある「AとB」にあたるのが「別れる」や「ひとりの人をずっと好きでいられるなんてできないよ」という発言です。そして、恋人が男の発言を理解するために、参照した「コンテクスト(=関係付け方の見本)」こそが、“物語”だといえると思います。“物語”は「他に好きな人ができたら別れる」という内容の“物語”でした。この“物語”に男の発言を流し込む、埋め込む、マッピングすることで、恋人は男の発言を理解したということです。

ながながと書き連ねていますが、つまり、“物語”という言葉は「コンテクスト」と同じものだと重森は言いたいのです。そして、人は、自らの手持ちの物語によってしか、事象を理解することができず、逆に、自分が持っている物語の数だけ、さまざまな理解を達成することができるということを言いたいのでした。

しかし、なんで「吉野屋が安くてうまい」などという文章が「別れる」という文章と因果関係の形で結びついているんだ? と突っ込みがきそうな気がします。重森が持ち出してきた「「吉野屋は安くてうまい」から「別れる」」という物語は、あまりにもむちゃくちゃなので、こんな物語など誰が持っているのだ、こんな物語を例え話として持ってくるんじゃねーよ。と怒られてしまうような気配が漂いまくっているように思います。

しかし、私は問いたい。どうしてそれなら「「他に好きな人ができた」から「別れる」」という物語は、すんなり受け入れることができるのか、と。どうして、「「他に好きな人ができた」から「別れる」」というような因果関係なら成り立つことができるのか、と。小一時間問い詰めたい。

暑くてだいぶ頭が煮詰まっています。ちょっと休んだほうがいいように思います。分かりにくい言い回ししかできなくてごめんなさい。今日はこのへんで休ませていただきたいと思います。すいません。

どんどん話が正統的なベイトソンの理論からはずれていっております。書いている重森も、どこに行ってしまうのか分かりません。

参考文献

グレゴリー・ベイトソン,2001,『精神と自然』,佐藤良明訳,新思索社




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