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第五回/コンテクストについて(その3)

■分裂生成が起きるメカニズム

「分裂生成」というのは「二人の人間の仲が悪くなること」と重森が超大雑把に定義していた考え方です。この現象はどのようにして起きるのでしょうか。いつも先延ばしになってしまうので、今回は、いきなり結論から言ってしまいたいと思います。

「分裂生成」が起きる理由のひとつとして、二人の人間がそれぞれ自分勝手に動員した「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいて、相手の言動を独り善がりに理解して、そのうえで相手になんらかの反応をしてしまう、ということがあげられると思います。そして、特に「対称型の分裂生成」が起きる場合には、お互いが、「憎しみ」もしくは「闘争」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」と呼びうるような「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に依拠して、反応を示し合い、お互いがお互いの反応を刺激しあうことによって関係の崩壊を迎える、ということが指摘できると思います。

また、「相補型の分裂生成」が起きる場合には、お互いが「依存」もしくは「もたれあい」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」と呼びうるような「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に依拠して、反応を示し合い、お互いがお互いの反応を促進しあうことによって、関係の崩壊が起きることになると指摘することができると思われます。

「憎しみ」もしくは「闘争」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」とか、はたまた「依存」もしくは「もたれあい」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」というものが、いきなり出てきました。これらの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の内容は、言葉にするなら、次のようになると思います。

「憎しみ」もしくは「闘争」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」 = 「見つめてくるのは、自分を憎んでいるからだ」「大声でどなってくるのは、自分を攻撃するためだ」「皆が口をきいてくれないのは、自分を疎ましく思っているからだ」

「依存」もしくは「もたれあい」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」 = 「いろいろ介入してくるのは、自分を支配するためだ」「殴ってくるのは、自分を支配するためだ」「愚痴を聞いてくれるのは、自分を受け入れてくれるからだ」

たとえば、「憎しみ」もしくは「闘争」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にどっぷり呪縛されている人は、彼(女)が知覚した事象は全て、その「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいて受け取られてしまいます。この「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」がすっかり身に染み込んでいる人が、遠くに目を細めて立っている人を見かけると「自分にガンつけている」と1人で興奮し、怒り狂ったりすると考えられます。

そして、もしもお互いが、「憎しみ」もしくは「闘争」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を保持しているならば、2人の関係は、「対称型の分裂生成」を迎えて、崩壊に陥るということになります。また、もしもお互いが、「依存」もしくは「もたれあい」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を参照しているならば、2人の関係は、「相補型の分裂生成」に陥り、最終的に破綻するということになります。

要するに、対称型の場合も相補型の場合も、仲の悪くなる二人の人間が同じ内容の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を保持していることが「分裂生成」が起きるための必須の条件になっているということです。二人の人間が両方とも「憎しみ」もしくは「闘争」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の保持者なら、彼らが迎えることになるのは「対称型の分裂生成」で、両者が「依存」もしくは「もたれあい」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を保持しているのなら、「相補型の分裂生成」が引き起こされるということになります。

ここでちょっと注意が必要になってきます。さきほどから重森は「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を「参照する」とか「動員する」とかいう言い回しを使っていますが、これは意識的に意図して、あるなんらかの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」が「参照」もしくは「動員」されるということではないです。

多くの場合、人はあるなんらかの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に縛られていることに気付けないと考えられます。だから、重森が使用している「参照」とか「動員」という言葉には、個人の主体的な態度は一切含まれていないことになります。つまり、人は自らが依拠したいと願う「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を自由自在に選ぶことは難しいということです。また、それ以前に、自分を呪縛している「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」のその内容自体を把握することも至難の技だと言えます。

以上、「分裂生成が起きるメカニズム」でした。

■「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」という考え方の難しさ

とはいえ、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」というものについて、重森はいまひとつうまく説明できていないように思います。あらためていろいろ文献を読んでみると、「コンテクスト」というものは、かなり難しい概念であることが分かり、簡単に説明することはできないのではないかと、思うようになりました。この概念をちゃんとうまく説明するには、もう少し時間がかかりそうです(あと30年ぐらい)。しかし、当面のところは、次のように理解していただければと思います。

ある事象を目の前にして、その事象を他のなんらかの事象と結びつける(=理解する)際に、その事象と事象を結びつけるために参照される「関係付け方の見本」が、すなわち「コンテクスト」である。

事象というのは、知覚可能なもの(目に見えるもの、耳に聞こえるもの)を何でもかんでも指しております。信号機の点滅でも、猫の声でも、ゴキブリがさささっと動くことでも、遠くで目を細めて突っ立っている人でも、知覚できるものはなんでも含みます。そして、目の前に出された事象を、人が理解するために(意識せずに)持ち出されるのが「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」というものです。

ベイトソンは事象と事象を関連させるという営みに関して、次のように言っています。

「関連するとは、AとBとが同一の物語の部分あるいは構成要素に収まるということと同じである」(ベイトソン 2001:17) 

つまり、ベイトソンは「物語」という言葉で、「コンテクスト(関係付け方の見本)」を表していると思われます。

■通約不可能性(分かりあえなさ)の原因

前回では、重森は意味不明の話をしました。「吉野屋は安くてうまい」というセリフがいきなり出てきて、「なに言ってんのこいつ?」という感想をもたれた方は多いと思います。

しかし、重森が示したかったのは、他人の言動がいくら理解不能に感じられてしまうとしても、他人は独自の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に沿って、その人なりにつじつまの合った論理を展開しているともいえる、ということでした。また、自分に対して示された他人の言動も、自分だけが参照することのできる「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいて、理解されているとも言えます。その意味では、お互いが依拠する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」をものすごく詳しく示しあわないかぎり、他人も自分もどちらとも独り善がりに事象を理解していることになります(しかし、たとえ、お互いがそれぞれ依拠する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を示し合ったとしても、全然理解できない部分は残ると思われます)。

これらのことを言いたいために、重森は「吉野屋は安くてうまい」というセリフを持ち出しました(かなり分かりにくくてすいません)。

そして、次のような問を発させていただきました。どうして「「他に好きな人ができた」から「別れる」」という因果関係の文はすんなりと理解されるのに、「「吉野屋は安くてうまい」から「別れる」」という因果関係の文は違和感を与えるのか?

答えは、普通の人は、「「吉野屋は安くてうまい」から「別れる」」という「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に呪縛されていないからだと思われます。「別れる」というセリフを耳にしたときに、とっさに頭の中で勝手に無意識的に思い浮かぶのは、「他に好きな人ができた」や「あなたにあきた」や「1人になりたい」という項目で、それらと「別れる」というセリフは結び付けられるのではないでしょうか。絶対に「吉野屋は安くてうまい」というセリフと結び付けられることはないといえます。普通の人は、「「吉野屋は安くてうまい」から「別れる」」という「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を保持していることはないと思われます。

つまり、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の中には、自分が参照することができる「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」と参照することができない「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」があるということです。

「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」というものは、なんらかの事象を理解するために、必ずいつのまにか動員されるものです。「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいて、人は目の前に提示されたなんらかの事象を、他の事象と「いつのまにか」「とっとと勝手に」関連づけて、そしてまさしくそうすることができるからこそ、なんらかの理解に辿り着いています。「吉野屋が安くてうまい」というセリフは、普通は、絶対に「別れる」というセリフとは結び付けられません。もし「吉野屋が安くてうまい」というセリフと「別れる」というセリフを関連付けて話している人がいたら、「こいつ、頭おかしいんとちゃう?」といぶかしがられると思われます。くどいようですが、このような関連付け方を許すような「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を持っている人は滅多にいないので、このような理解をする奴に出会うと、人は驚き、違和感を感じるのです。

他者とのコミュニケーションにおいて、断絶や通約不可能性(分かりあえなさ)を感じる時には、お互いが保持する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の種類が異なっていると、重森は考えます。「「吉野屋が安くてうまい」から「別れる」」という論理を素直に受け入れられる人にとっては、「「他に好きな人ができた」から「別れる」」という論理は理解できないかもしれません。このような人が、もしも「別れる」という言葉を耳にしたならば、その言葉と当然のように結び付けられる言葉は「吉野屋が安くてうまい」なのです。この人にとっては、世界はこのようにできているのです。

このような「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を持っている人が仮に存在していたとします。そして、その人が自らを呪縛する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の内容を、頑張って周囲の人々に明らかにしたとします。これこれこういう「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」が自分に染み込んでいるから、自分は「別れる」という発言を「吉野屋が安くてうまい」という項目と結び付けてしまうのだ、と相手に分かるように言葉を尽くして説明したとします。

しかし、たとえ、自分が依拠する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を詳細に披露したとしても、どうしても理解されない部分は残ると思われます。

■「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の内容がまさしくそうであることの理由のなさ

「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の内容が明らかになっても、その内容自体(事象と事象の当たり前的な結びつき)は相手に受け入れられないことが多いと予想されます。

多くの常識的な日本人は、「「他に好きな人ができた」から「別れる」」という文章を、すんなり理解することができると思われます。この文章を目にした人は、なるほどそうか、と納得感を得ると思われます。

しかし、ある人は、この文章に違和感を感じるかもしれません。特に、年端のいかない子どもや、外国から来た人間(特にフラ◯ス人)は、「「他に好きな人ができた」から「別れる」」という因果関係の文章を素直に受け入れることができないかもしれません。そして、「「他に好きな人ができた」から「別れる」」のはなぜ? と質問してくるかもしれません。

このように聞かれたら、ちゃんとした根拠を示すことによって答えることはできないのではないでしょうか。「そういうことになっている」としか答えられないと思われます。「違うよ。他に好きな人ができたのに、そのまま付き合い続けたら、お互いストレスがたまるし、他に好きな人ができた方にたいする嫉妬心が高まるから、別れるんだよ。」と丁寧に答えてくれる人もいるかもしれません。しかし、疑問は尽きません。「どうして、嫉妬心が高まると別れるわけ?」とか、「なんで嫉妬心が高まるの?」とか、もっとたちが悪いと、「「付き合う」という言葉の意味が分からない。「付き合う」ってそもそもどうすることなの? セックスしたり、一緒にいる時間を持ったり、夜中に長電話することをもって、「付き合う」という行為を遂行していることになるようだけど、そもそもなんで「付き合う」などという面倒くさそうな「儀礼」的な言い方で、自分の自由を制限するの? そしてこの「付き合う」という行為は、お互いに「嫉妬心」を高め合わないために、かならず1人の相手と行わなければならないらしいけれど、「嫉妬心」が高まってもべつにいいじゃん。」とさらなる質問(批判?)がなされるかもしれません。

しかし、たいがいの人は、「こいつ、こどもだな」とか「話にならんわ」とこのような困った質問をしてくる相手を、無視することが予想されます。

サッカーをしている最中に、「ねえねえ、どうしてボールを手でもったらいけんの?」とか「キーパーはどうしてひとりなの?」とか、「そもそもどうして汗かいてボール蹴って網の中に放り込んで喜んでいるわけ?」と質問することが馬鹿まるだしのように、上記のような質問はやってはいけない種類のものだと考えられます。

「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」は、サッカーのルールのように、その内容が勝手な取り決めによって決定されているのかもしれません。「「他に好きな人ができた」から「別れる」」という因果関係は当たり前のものに見えますが、「他に好きな人ができた」というセリフと「別れる」というセリフは、実は無根拠的に、結び付けられているのではないでしょうか。しかし、この無根拠性を忘れて、あたかもそれが当たり前のことのようにして、我々は日常生活を生きているのではないでしょうか(←あまりにも当たり前のことなのでいまさら指摘することではないかもしれませんが)。

「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の恐ろしいところは、それが自分の「世界の見え方」に影響を及ぼしまくっていることが明らかであるにもかかわらず、相対化することが難しいことだと思われます。あるなんらかの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に呪縛されている人は、呪縛されていることに気付けないのです。だから、「対称型」にせよ「相補型」にせよ、「分裂生成」に陥っている当事者たちは、自分が攻撃された、もしくは、受け入れられた、と否定しようがないほどにリアルに感じて、再び自分自身も「対称型」または「相補型」の反応を反射的に相手に返します。そして、「分裂生成」が加速されていく。

■分かりあう = 相手を自分の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に引きずり込む

しかし、「分裂生成」が起きるということは、ある意味「分かり合っている」「理解しあえている」ということとも言えると思われます。自分を攻撃してくる相手に、自分も攻撃を加える。相手も、その攻撃を受けて、再び自分に刃向かってくる。牙を向いたら、牙を向き返してくるので、相手の行動は予想通りです。この状態は、コミュニケーション成立しまくりの、分かりあえている状況だといえるのではないでしょうか。

そして、この「分かり合っている」状態に自分と相手を誘導していこうとする営み(=他人を自らが依拠する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に引きずり込もうとする営み)は、日常生活におけるさまざまな場面で観察することができると思われます。

例えば、もともとこちらは攻撃を仕掛けたつもりではないのに、相手が勝手に自分の言動を「攻撃だ!」と解釈して、びびって、もしくは怒って、反撃してくることがあります。これは他人を自らが依拠する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に引きずり込もうとする営みと言えます。攻撃のつもりではないのに、自分の言動が、攻撃と捉えられてしまい、予想もつかない反撃を相手からくらう。これは、掲示板とかMLとかでよく起きる現象といえます。自分が依拠する「闘争」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に相手を巻き込もうとする人をそのような場では多くみかけます。

そして、自分のなんでもない行為を攻撃として相手に受け取られた人が、相手からのいわれのない反撃を受け続けていくにつれ、やがて、最初は攻撃しているつもりではなかったのに、最終的には、自分の行為を、相手への確固たる攻撃として、行使していくことがよくあります。

たとえば、道を歩いていると、目の前にチンピラが現れて、「じろじろ見るな。ガンつけやがって。喧嘩売ってんのか?」といちゃもんをつけてきたとします。あなたは「何こいつ? どっから出てきたんだ。こいつのことなど最初から全然見てないんだけど」と戸惑います。チンピラは「喧嘩売るなら買うぞコラ!」と殴り掛かってきました。あなたは殴られます。鼻血が出ました。痛いしむかつきます。「いてーじゃねーか!」とついにあなたはチンピラを殴り返します。チンピラは「かかってこいや!」とやる気満々で、あなたも頭に血がのぼってチンピラを睨み付けています。

最初はなんの意図もなくただフラフラと道を歩いていたあなたは、まんまと見ず知らずのチンピラの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に引きずり込まれてしまったのでした。あなたはチンピラを殴った時点で、喧嘩を売るためにチンピラにガンつけていたことになってしまいました。チンピラに敵意をもっていたからガンをつけたということは、否定しようのない事実になってしまいました。あとは「分裂生成」まっしぐらです。

チンピラはあなたに喧嘩を売られているとリアルに感じたかもしれません。だからあなたにつっかかってきました。しかし、あなたは、最初はチンピラのことなど全然気にしていませんでした。ところが、結果的には、チンピラと喧嘩をしています。この時点で、チンピラが保持していた「闘争」の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の正しさが証明されているといえます。喧嘩をしている、お互い憎み合っていることは、否定しようのない事実となり、明らかにリアルなものになってしまいました。チンピラにとっての「世界の見え方」にあなたはまんまと組み込まれてしまったのです。

■とりあえず、まとめ

以上、ながながと「分裂生成が起きるメカニズム」について見てきました。ベイトソンは、「分裂生成」が起きるためには、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」が必要不可欠と考えていたと思われます。今回は(1)「対称型」または「相補型」の「分裂生成」は、お互いが同じ内容の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を保持しているときに起こるということと、(2)相手を自らが依拠する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に引きずり込むという側面が、「分裂生成」が起きる条件のひとつとして存在しているということを、確認させていただきました。

次回は、なんらかの内容をもった「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」というものが、どのようにして人に埋め込まれるのかについて考えてみたいと思います。その際に役立つ考え方がベイトソンの提唱した「学習2」という考え方です。

参考引用文献

グレゴリー・ベイトソン,2001,『精神と自然』,佐藤良明訳,新思索社




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