■逆の分裂生成
今日は「逆の分裂生成」についてお話ししてみたいと思います。
「分裂生成」が「人と人の間に溝が出来ていくこと」ならば、「逆の分裂生成」とは「人と人が仲良くなること」と言えます。
両者とも、「他者を自分の「思いこみ」もしくは「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいて勝手に解釈する」という段階を踏まえています。しかし、実現される現実の内容は大きく異なっています。「分裂生成」においては、「悲惨で血みどろの陰険な現実」が実現され、「逆の分裂生成」においては、「爽やかで心温まるような現実」が実現されると思われます。
このことを詳しく見ていきますと、次のようになります。
「分裂生成」の場合には、頭の中で独り善がりに想像していた「悪しき他者像」を、相手に押しつけ、相手の言動を全て、自分への攻撃・非難として受け取り、そしてその「悪しき」言動に対して、こちらも報復的な反応を相手に返すことによって、「悲惨で血みどろの陰険な現実」が実現されます。
一方、「逆の分裂生成」の場合には、頭の中で独り善がりに想像していた「良き他者像」を、相手に押しつけ、相手の言動を全て、自分への好意・親しみとして受け取り、そしてその「良き」言動に対して、こちらも恩返し的な反応を相手に返すことによって、「爽やかで心温まるような現実」が実現されます。
どちらの場合にも、自分を呪縛する「思いこみ」ないし「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の正しさが立証されるようにして、お互いの言動が示し合わされています。そして、このような過程を経たうえで、自分を呪縛している「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」通りの現実が作り出されています。どちらの場合でも、他者を、自分自身を呪縛している「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に招き入れる営みが繰り広げられていると言えます。
■重森を呪縛する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」
重森が尊敬する人物にマザー・テレサという人がいます。この人は、基本的に人が大好きなようです。マザー・テレサは、出会う人すべてを、包み込みまくっているような印象を受けます。まさにマザー・テレサのような人は「逆の分裂生成」を実践していると言えると思います。
一方、わたくし重森誠仁は、マザー・テレサと逆の性質を持っています。「自分は嫌われている」「自分は憎まれている」「自分は変に思われている」と勝手に思いこんでいるため、他者の言動を、かなり曲解して、全て自分自身への攻撃・非難として受け取りがちです。そのため、重森の他者に対する反応は、ある時は、むやみに攻撃的・自己防衛的だったり、またある時は、むやみに迎合的・萎縮的だったりします。前者の反応は容易に「対称型の分裂生成」を、後者の反応は「相補型の分裂生成」を引き起こします。
重森は本当に困ったやつです。「あなた好きよ」という音声情報を耳にしたら、普通は喜んでいいはずなのに、「自分は相手の思い通りに動かなければならない」と受け取って、緊張と恐怖のどん底を勝手にさまよったりします。また、単に、犬が横を向いただけなのに、強烈にショックを受けたり、テレビに映る怒り狂った俳優を見て、自分が怒られているような気分になり、とことん傷つきます。重森は、自分自身がかなりへんてこりんな「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に呪縛されていることを、頭では理解しています。しかし、相変わらず、この「思いこみ」に自らの現実感覚を絡め取られたままです。
こんなへんちくりんな「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に呪縛されっぱなしだと、人生面白くありません。むかつきます。吠えたくなります。いきなり道路を全速力で駆け抜けたくなります。ベイトソンとか人類学関係の本を読みまくって、自分が見ることの出来る「世界」は、あくまでも、あまた存在している「世界の見え方」の一つにすぎず、そのうえ、もっと心地よくなるような「世界の見え方」も確実に存在していることが、頭では理解できていたとしても、いまだ自らに染みついている「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」は、重森をこれでもかこれでもかと支配し続け、限定されたとてもつまらない、不幸で悲しくなるような悲痛な現実しか、感じさせないのです。
残念ながら、重森は、「自分を呪縛する「思いこみ」から逃れる確実な方法」を、いまだ見つけていません。苦しみから逃れる方法には、様々なものがあると思われます。精神科でもらえる薬の中には、飲むと妙にハイになれるような薬もありました。しかし、薬の効力が切れると、元に戻ってしまいます。また、頭の動きを緩めるために、酒を飲んだり、むちゃくちゃに叫びながら、近所の山を登ったりすると、一時的に気分が晴れやかになり、結構爽やかに他人に対して接することが出来ます。しかし、これも時がたてば、元に戻ります。これらの方法は、対症療法的だといえます。重森が求めているのは、根治療法なのです。一時の気休めではなく、自らを呪縛する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」のその呪縛力を振り切り、別の現実感覚をありありと感じることができるための確実な方法を、重森は探しているのです。
■ダブル・バインドをどう乗り切るか
重森は、現在、「演技のレベル」に留まっているといえます。すなわち、重森は実は、マザー・テレサのような現実感覚を手に入れたいと思っているのですが(←要するに、幸せになりたいということ)、相変わらず「人はみんな敵だ」だとか「自分を攻撃しようとしている」という気持ちの悪い被害妄想的な「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に呪縛されっぱなしなので、どうしても、マザー・テレサのように、他者の言動を、暖かさを備えたものとして受け取ることができず、そしてまた、自らも他者に対して、優しく暖かく小粋に反応することができません。他者は重森にとって、驚異でしかないので、重森は「逃走or闘争」の苦しい二者択一をいつも迫られています。しかし、重森はなんとかこの状況から抜け出したいと考えています。そこで重森は、自らが否応なくリアルに感じてしまっている苦痛に満ちた現実感覚を引きずったまま、自らが目標とする別の現実感覚を実現させるために、演技をしているのです。
要するに、重森は、自ら率先して、意図的に「逆の分裂生成」を実践していると言えます。そのまま放っておけば、とっとと「分裂生成」にひた走ってしまうのを、重森はなんとか食い止めて、自分が幸せになれるような現実を実現するために、演技という手段を用いて、「逆の分裂生成」を生じさせようとしているのです。
演技と聞くと、人は胡散臭く感じるかもしれません。しかし、現在の重森は、演技という手段を必ずしも悪いものではないと捉えています。重森がしている演技とは具体的には「努めて笑顔で他者に接する。」とか「心からそうは思っていないくせに相手に愛情を示す。」とか、「本当はどうでもいいのに、好きでもない人に好意を示す。」というような行動を指します。
重森は昔は、自らのこのような行動の、その嘘臭さを非常に恥じていました。しかし最近は、考え方を変えて、むしろ、率先して嘘を付きまくっています。「違う。あんたは間違っている。建前的に人に接するのではなく、本音をさらけ出した方がいい。そのほうが気持ちがいい!」と言う人もなかにはいるとは思います。昔の重森ならそう言いかねません。しかし、本音をそのまま出すと、重森は「分裂生成」まっしぐらになるので、やはり演技をしなければならないのです。
重森が、世界中に存在する呪術師と呼ばれるような人々を尊敬するのは、彼らが、虚構としか思えない現実を、確実に存在させ、絶大なるリアリティを周囲の人々に感じさせることができるからです。「虚構」という言葉を別の表現で言い換えると、「嘘っぽい」とか「作り物じみている」とか「全然理解できない」とか「インチキくさい」というふうになると思われます。しかし、この「虚構」という表現は、あくまでも、外部からの視点にたったうえで初めてなされるものです。「吉野屋が安くてうまいから別れる」と真顔で述べている人は、「嘘をついている」もしくは「ふざけている」としか思えませんが、実際にリアルにそのように感じて、このようなセリフを述べている人にとっては、このことは否定しようのない現実なのです。虚構とかいう言葉は、自分を呪縛していない「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に生きる人に出会ったときに、口に出される言葉と考えられます。つまり、虚構という言葉は、目の前で展開されている現実に、入り込めない時に、共感できない時に、思わず口に出される言葉と思われます。
「虚構」とか「でたらめ」とかいう言葉を頻繁に口に出す人々の中には、「呪術師の行為は、まっかな嘘だ」とか「奴らは単に演技しているにすぎない」というセリフを、したり顔で述べたてるいわゆる「客観的で科学的な」人々がいます。重森にしてみれば、このような人々は、薄っぺらいとしかいいようがありません。このような頭でっかちの客観主義野郎たちは、「人は虚実のあわいを生きることができる」という深遠なる事実を、見落としているように思えてなりません。「嘘か本当か」「演技か素か」と、とにかくデジタルに区別するばかりではだめで、問題にすべきはリアリティー、現実感覚なのだ、ということを見落としているように思えます。
そういえば昨日、テレビでイタコを科学的に検証するという内容の番組がやっていましたが、重森はあれを見て非常にむかつきました。イタコに有名人を憑依させて、憑依させた有名人にまつわる客観的な事実(生年月日とか親族の年齢だとか)を答えさせて、そのインチキくささを暴こう、またはその中途半端さを笑ってしまおう、というような企画でした。
生年月日や親族の年齢を答えさせて、憑依のインチキくささを暴露する。あまりにも単純すぎる考え方ではないでしょうか。「憑依霊は本当にいるのかいないのか」「イタコは嘘つきかそうでないか」というレベルで議論することは、超不毛なことのように思うのです。「問題はリアリティーだろ!」と言いたい。
インチキであることを暴いて、それで終わりなのか! もっと触れるべきことがあるのに! このままじゃ、イタコたちが、ただの嘘つきとして日本中の人々に印象づけられてしまう! とむかつきました。
イタコが普段おろす憑依霊は、日本人と考えられます。自分だけでは処理することができない深刻な悩みを抱えたお客さんが、イタコにおろしてくれるようにお願いする霊は、イタコにとっても容易に想像することが可能な人間です。日本人という属性、○○県人に特徴的な話し方、そして、このような人間像によく当てはまるような因果関係の話のストック、これらの情報を容易に動員することができるような憑依霊(つまり日本人)を、お客はおろすように普通はお願いするはずです。だからこそ、イタコとお客の間に、憑依霊というものの存在がありありとその存在感を持つことができ、お客がイタコをまさに媒介者にして、死者と語らうことができるという希有の空間、場、が成立すると考えられるのです。そして、お客は死者と実際に語り合う。どうしようもなくリアルに。
マリリン・モンローなどをおろすことを切に願ってイタコのところにくる人はいないのではないでしょうか。
イタコとは異なるのですが、重森のふるさとである沖縄にはユタと呼ばれる呪術師がいます。3年前に、重森は幼なじみを水難事故で亡くしたことがありました。亡くなった友人の母親はずっと悲しんでいました。死んでしまうには友人は若すぎたからかもしれません。前途有望ないいやつでした。友人の母親はユタのもとに通って、友人の霊をおろしてもらい、話をしたそうです。するとユタにおりた友人の霊は「おかあさんごめんー。事故に遭ってしまったさー」と母親に語ったそうです。
友人の母親はユタを通して息子と語らい、自分の息子が突然に若くして死んでしまったことについて、なんらかのふんぎりをつけることができたと思われます。ユタを通して自分の息子と語り合うことによって、混乱した精神状態を整理し、友人の母親は立ち直ることができたのではないでしょうか。
どんな思いをかかえた人が、イタコの客として日常的に訪れ、そしてそこでどのようなことが実際に達成されているのかを無視して、イタコたちの技術だけを取り出し、その非科学性をことさら全面に押し出して見せるようなテレビ番組には、腹が立ちました。ものごとの本質をはずしています。残酷なほどに。
また、テレビ番組に出ていたイタコもイタコだと思いました。イタコとしてのプライドはあるのかと言いたい。陳腐なテレビ番組の笑いぐさにされてもおかしくないほどに、テレビに出ていたイタコは立ち居振る舞いが中途半端なのです。最初から、このようなふざけた番組には出ないでほしいです。もしも出るなら、徹底的に周囲を畏怖と驚異で飲み込んでほしい。海鮮料理など頼んでいる余裕などないはずだ。近頃のイタコは、自分がイタコであることにリアリティーがないように思いました。
「現実を作り出す」という深遠なテクノロジーが、あまりにもかわいそうです。テレビ番組では笑いものにされ、そのテクノロジーの使い手であるはずのイタコには、ぞんざいに不徹底に扱われ、ただの茶番でしかなくなっている。イタコという存在は、もっと恐ろしく深遠な物語発生装置であるにもかかわらず。怠慢こいてんじゃねぇよ、と思ってしまいます。
すいません。いつものことのように、話が大幅にずれてしまいました。
「本物の呪術師は自分自身をもふくめて、周囲の人々に、否定しようがない、どうしようもなくリアルな現実感覚を与えしめることができるすごい奴らだ」と重森は考えています。しかし、外部から来た人は、彼らの営みを胡散臭いものに感じます。外部から来たために、呪術師が周囲の人々に押しつけようとしている「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に絡め取られていないので、目の前で展開される全ての行為が、しらじらしくて、嘘臭く、演技のように思えて仕方がないと考えられます。
重森が現在取り組んでいる人類学という学問は、遠い異国に行って、虚構としか思えない現実を生きている人々を見つけだし、そのような虚構としか思えない現実が、どのようにして現実として生きられているのか、そのメカニズムを明らかにしようとするものです。フィールドで出会った異国の人々が、外部から来た人類学者からすれば虚構でしかない現実に、どのようにして生きることができているのかを、一緒に生活することによって、見極めようとします。
人類学者が、フィールドにおいて展開されている現実に、まんまと絡め取られるための条件を、重森は明らかにしたいと考えます。もしくは、フィールドにおいて、ふたつの現実(例えば、妖術の存在する現実とそうでない現実)を巧みに生き分けている人を見つけだしてその人に注目したいと重森は考えております。そうすることによって、人が自らを呪縛する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」のその呪縛力を振り切り、自由自在に自らが好む別の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に身を任せて、確固たる現実感覚を得るための方法を、見つけたいと考えています。
再び話がそれております。テレビ番組の悪口や人類学の目標を話したかったのではなくて、重森がここで問題にしたかったのは、ダブル・バインドという問題でした。話をもとに戻します。
ダブル・バインドとは、ベイトソンが分裂病を理解するために提示した理論です。ものすごくぶっちゃけて話せば、ダブル・バインドとは、メッセージの受け手が、相矛盾する内容の二つのメッセージを受けて、混乱してしまい、分裂病に至るという考え方です。
たとえば、母親とその子どもがいたとします。母親は子どもにむかって、「こちらにおいで」と言います。子どもはその言葉を受けて、母親の側へ行こうとします。しかし母親は、子どもが自分に近づいてくると、さもいやそうな顔をします。子どもは母親のその表情を見て、近くに行くことをやめます。しかし、母親はまた「どうしてこっちに来ないの? おかあさんのことが嫌いなの? おいで」と言います。子どもは再び母親に近づきます。すると再び母親は明らかにいやそうな顔をする。
メッセージの受け手である子どもは、(1)「こちらにおいで」というメッセージと、(2)「こっちにくるな」という母親の顔面メッセージの間で板挟みになります。(1)のメッセージの意味を正しく読みとり、母親に近づこうとすると、(2)のメッセージが発せられて、拒否される。しかし、(2)のメッセージの意味を正しく読みとり、近づくのをやめると、再び(1)のメッセージが提示されて「どうしてこちらに来ないの? おかあさんのこと嫌いなの?」となじられる。
ベイトソンはこのような状況を、ダブル・バインドと呼び、分裂病を発症させる原因として理論化しました。二つの相矛盾するメッセージを同時に受け取った子どもは、どう動いてもどっちみち母親から非難されるので、いつしか他人の言動の意味を独特の仕方で解釈するようになります。この独特な解釈の仕方こそが、分裂病者に顕著な症状であると、ベイトソンは述べています。
すなわち、ダブル・バインドの状況に置かれて育った子どもは、(1)他人の言動の意味をもはや解釈することをやめて、外部との交渉を断ち切る。(2)他人の言動の隠れた意味を想像し、過剰な意味を読みとってしまう。(3)冗談を理解せずに、他人の言動を文字通りに理解しようとする。というような独特な解釈の仕方をするようになる、とベイトソンは述べています。
日々、演技を駆使して生きている重森が危惧するのは、相手をこのようなダブル・バインド的な状況に追い込んでしまうことです。重森は基本的に人が嫌いです。放っておけば、態度にそれが出てきます。お前は俺を脅かす。だからお前敵。殺す。というような恐ろしく悲惨な現実に勝手に生きてしまい、「分裂生成」を始動させてしまいます。だから、これを避けるために、演技をします。しかしその際に、ベイトソンが例として出した母親のように、他人に相矛盾するふたつのメッセージを送ってしまっているという危険性が出てきてしまうのです。
たとえば重森が、ひさしぶりに会った知り合いのAさんに「ひさしぶりー! 元気にしてた? 会えなくて心配していたよ」と心にもないことを言ったとします。しかし本音レベルでは、重森は「こいつは敵だ。私を思い通りに支配しようとしている。もしくは攻撃しようとしている。怖い。この場から逃げたい」と冷や汗だらだらで考えていたりします。重森は内心穏やかではなのですが、頑張って、良き友人として他者に接しようとして演技をしているのです。
もしもAが、他人の些細なしぐさや表情に敏感な人だとしたら、重森はAをダブル・バインドにかけていることになります。口では、「会えなくて心配していたよ」と言っていたとしても、顔は硬直して目が泳いでいるような表情をしていたならば、Aは「重森という人間は嘘つきだ。嫌そうな顔をしやがって。むかつく」とムカッとくるか、「ああ、口では親しげでも、顔では拒否しまくりなのね。悲しい」とショックを受けてしまうかもしれません。
せっかく、自分が幸せになれるような現実を実現させようとしたのに、そのために用いた演技という手段が、ダブル・バインドを引き起こして、相手に不快感やショックを感じさせてしまったのでは、意味がありません。母親と子どもの事例が示すように、相手に分裂病を発症させてしまうことはないかもしれませんが、相手を人間不信に追いやる可能性があります。これでは逆効果です。
■騙す
好みの現実を実現させるという作業は、骨の折れる作業です。できるだけダブル・バインドを生じさせないようにしないといけません。そのためには、自分で自分を騙すことが必要不可欠になってきます。相手を自分が実現したいと思っている現実に引きずり込むことは、引きずり込もうとする自分自身をも騙さねばならないという過程を含んでいると重森は考えます。
再び、触れてしまいますが、重森が見たバリの呪術師たちは、周囲の人々だけでなく、自分自身をも見事に騙しているように見えました。すごい能力です。自らが呪縛されるべき「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を選ぶことができるという荒技を、私は見せつけられたのでした。
そこには、相矛盾するようなふたつのメッセージなどなく、あるのは呪術師が作り出そうとしていた「サクティという超自然的な力が存在するという現実」でした。演技からリアルへ、嘘と本当という貧相な二項対立図式はなく、あるのは絶対的なリアリティーでした。
いまだ重森は呪術師のように、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を操作する技を会得できていません。しかし、昔と比べて、人をうまく騙せるようにはなってきたとは思います。
しかし、自分の行いにたいして、「騙す」とか「演技」とかいう言葉をあてがってしまうところが、まだまだ未熟であることを示しています。重森は自らを呪縛する「他人は自分を嫌っている。」「他人は自分を攻撃しようとしている。」という「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の呪縛から逃れられず、「他人は良き者だ。」「自分は愛されている」という別の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」へ自らを呪縛させることに失敗していると言えます。さながら、役に入り込めていない新米劇団員のようです。
演技しているくせに、演技していること自体を忘れることができるようになるには、あとどれくらいの月日がかかるのだろうか。とよく考えます。しかし、考え込んでも仕方がないので、実践あるのみです。
世界に大勢存在する呪術師たちを参考にして、日々精進したいと思っております。
■呪術師
呪術師、呪術師と重森は騒いでいますが、このような人々はなにも遠く隔たった外国に行かなくても、身近に大勢いると思われます。例えば、商人。彼らは巧みな計算によって、相手を「語り」によって、自らが思い描く「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に誘い込みます。特に、値段交渉の場では、自らが提示する現実の押し付け合い、作りあい、が展開されます。
この、現実を作り出すという技を、特に磨いているのは、商人だけに限らないと思われます。飛び込みの営業マンだとか、プロレスラーだとか、新聞の勧誘人だとか、ナンパ師だとか、歌舞伎町のホストだとか、お笑い芸人だとか、法廷に立つ弁護士だとか、身近なところに、呪術師的な人々は存在していると思われます。
わざわざ異国に行かずに、近所で活動している呪術師的な人々にも注目して、「現実の作り方」を勉強したいものだと考えております。