■学習
以前、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」というものについて、かなりしつこく解説させていただきました。この「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」というものは、まさしく重森が「思い込み」という言葉で表現しているものです。いったん、なんらかの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」が自分に染み付いてしまうと、その「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」から逃れることは難しくなります。「思い込み」の渦中にいる人は、「思い込み」を突き放すことが出来ないということです。
ベイトソンは、なんらかの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」がどのようにして人に埋め込まれるのかという問題について、「学習」という言葉をキーワードにして、解説しております。
ベイトソンによると、学習には、4(5?)種類あるそうです。ゼロ学習、学習T、学習U、学習Vの4種類の学習があるそうです(実は、学習Wというものもあるようですが、難解&超自然的なので省力させていただきます)。順番にこれらの学習をみていきたいと思います。
まずはじめに、ゼロ学習。この学習は、「一定の刺激に対する反応が一定しているケース。刺激と反応のつながりが遺伝的に決定されている場合。失敗から学ぶことがない。」という性質をもつようです。例えば、膝小僧の下らへんを叩くと、足がビクンと動きます。この反応は、遺伝的に最初から決定されているといえます。ゼロ学習は、個体がある刺激にたいして最初から持っている反応の仕方と言えると思われます。
次に、学習T。学習Tは「あるコンテクスト(他の事象との関係のあり方のセット・まとまり)のもとで、ある一定の動作・解釈をするようになること」(ベイトソン 2002:395)と言えそうです。ちょっと意味が分かりにくいですね。
ベイトソンは、学習Tの例として、パブロフの犬をあげています。犬は、普通は、ブザーを鳴らしたからといって、よだれをたらすことはありません。しかし、ブザーを鳴らしてから、肉をあげ続けると、犬はいつしか、肉にたいしてたらしていたよだれを、ブザーの音にたいしても、たらすようになります。ゼロ学習では、ある事象にたいする反応の仕方が遺伝的に決定されていました。しかし、学習Tでは、ある事象にたいする反応の仕方が後天的に学習されているといえます。注意するべきことは、学習Tの段階で学習されるある特定の反応の仕方は、なんらかの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の中で行われているのですが、学習者は、いまだこの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に呪縛されていないという点です。
次に学習Uについて見ていきます。学習Uは、学習Tではまだ学ばれることがなかった「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」自体が学ばれるという種類の学習です。学習Tでは、パブロフの犬は、ブザーにたいしてよだれをたらすように学習しました。一方、学習Uでは、ブザーだけでなく、ブザーとともにその場に存在している科学者の白衣だとか、実験室の冷ややかな床の感触だとか、自らにまきつけられる拘束用のバンドもまとめてセットになって、「今はよだれをたらすべき時だ」という決断をする際の、「手がかり」として学習されます。
「手がかり」という言葉を使うと誤解を呼びそうです。「手がかり」という言葉は、ブザーがよだれをたらすための手がかりになっているのだから、白衣や床もよだれをたらすための手がかりになるのだ、というような理解を読み手にさせてしまいそうです。「ブザー=白衣・床・バンド」というような等式を読み手に思い浮かべさせてしまいそうです。
そうではなくて、「ブザーの音だけにたいしてよだれをたらしていたパブロフの犬は、ブザーの音をどのような状況で聞けば、より、よだれをたらしやすくなるか」ということがここでは問題になってきます。つまり、野原でブザーの音をを聞かせるよりも、実験室で白衣の人々に囲まれて、ついでに床も冷ややかで、おまけに体をバンドで拘束されているほうが、パブロフの犬は容易によだれを流しやすくなるということが、学習Uの段階では起きていると言えます。
学習Tの段階では、ブザーの音にたいしてだけ、よだれを流すように、パブロフの犬は学習していました。しかし、学習Uの段階では、ブザーの音は、周囲にある事物(白衣とか床とかバンドとか)とのかねあい、「周囲にある事物がおりなす配置」のなかで、よだれを流すべきものとして、パブロフの犬にますます受け取られることになりました。「周囲にある事物がおりなす配置」というものは、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に他なりません。
つまり、学習Uでは、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」の学習が行われるということです。ブザーの音を聞いてよだれをたらすようになったパブロフの犬は、いままで実験室という独特の空間にいました。実験室という空間には、白衣だとか冷たい床だとか拘束用のバンドが揃っています。犬は、学習Tの段階では、ブザーの音だけに反応していましたが、いつしか、ブザーの音が聞かされる状況(白衣や冷たい床や拘束用のバンドがある状況)そのものも学習して、ブザーの音は、このような状況で特に、犬によだれをたらさせやすくなります。実験室という空間から犬を出して、野原とか道路とか高層ビルの屋上だとか、プールの中だとかで、ブザーを鳴らして聞かせても、実験室でブザーを鳴らして聞かせていたときよりも、犬はよだれをたらしにくくなると言えます。
この学習Uという段階こそ、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」が個体に埋め込まれるときだと言えそうです。パブロフの犬は、よだれを流しやすくなってしまう「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を埋め込まれたと言えます。ブザーの音を聞けばよだれをたらすように犬は学習Tの段階で仕込まれていましたが、学習Tの段階では、野原だろうとプールだろうと、場所を変えてもブザーの音にたいするよだれの頻度には、大きな差は見られないと思われます。しかし、学習Uの段階では、あきらかに野原やプールと較べて、実験室という場で、犬はブザーの音にたいしてよだれをながしやすくなってしまいます。これは実験室という独特の空間、そこにあった事物(白衣とか冷たい床)とかが織り成す関係そのものが、犬に学習されてしまい、ブザーの音は白衣や冷たい床との関連の中に位置づけられることによって、よだれを流すべきものとして犬に受け取られやすくなってしまっているということです。
■対人関係と学習U
学習Uで埋め込まれた「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」は、個人の対人関係に影響を与えます。人物Aの言動が人物Bを呪縛している「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」次第で、様々に解釈されてしまうということです。言葉には最初から意味が張り付いていて、それを我々は口に出して伝え合っているのではなく、言葉の意味は、それを受け取る個人が依拠している「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいて、はじめて明らかにされる(理解される)ということです。Bが呪縛されている「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」次第で、Aの言動はBへの攻撃や称賛として、Bに受け取られるのです。
例えば、Aが「おはよう」とBに言ったとします。この「おはよう」という音が、どのように解釈されるのかは、Bに埋め込まれている「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」次第になります。もしも、過去にBが、「おはよう」という音とともに、虐待された経験をもっているなら、Bは「おはよう」というAが出した音にたいして、警戒します。もしくは脅えると思われます。
精神分析の用語で「転移」という言葉があります。これは、患者がセラピストに自分にとっての重要な他者(たいてい親)が過去に自分を扱ったのと似た扱い方で自分に接するよう迫ることを言います。学習Uが達成された結果として患者の身に染み付いた「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に従って、患者はセラピストとのやりとりを形作ってしまうこと。世界を見る際に不可避的に参照してしまう暗黙の前提(「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」)が存在しているので、この「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいた世界しか患者は見ることができないということ。転移という精神分析用語は、このような現象を言い表したものだと言えます。
この、人を呪縛する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」というものは、いい意味でも悪い意味でも、呪縛している人に、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」通りの現実を実現させるように行動させます。「自分は嫌われている」という「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に縛られている人は、他人に対して、自分を嫌うように行動してしまうことになり、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」通りの現実を見事に実現させてしまいます。このことは、「対称型の分裂生成」のところでいっぱい見てきました。「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」というものは、ほんとに恐ろしいといえます。
パブロフの犬は、ブザーの音を聞くとよだれをたらすようになりました。普通は、肉にたいして流されていたよだれが、後天的にブザーにたいしても流されるようになりました(学習T)。そしてさらに、パブロフの犬は、ブザーが鳴らされていた状況そのもの、ブザーと白衣と冷たい床と拘束用のバンドという「関連そのもの・関係性そのもの」(=「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」)を学習するに至りました(学習U)。人間もパブロフの犬と同様に、「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」そのものを学習する生き物です。過去に「おはよう」という音とともに殴る蹴るの暴行を受けたことのある人物Bは、「おはよう」という言葉と、暴力や恐怖や痛みを関連付けて、そのセットをまるごと学習しています。そうすると、別の機会で、他人Aから「おはよう」と言われた際に、あらかじめ埋め込まれた「おはよう―暴力―恐怖」という「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいて、Bは「おはよう」という言葉を受け取り、脅えることになります。
ちょっと例え話が突飛すぎたようです。重森の実体験から例え話をしてみたいと思います。
重森は、テレビで怒った演技をしている俳優を見ると、脅えます。自分が怒られているという感覚をリアルに味わい、生きた心地がしません。このことを学習Uという考え方を通して見てみると、重森は過去に、「大声─怒りの表情─恐怖―脅え」とでも書けるような「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を埋め込まれていると予想されます。過去とは全然関係ない、とあるテレビ番組に出演している俳優の、怒りの表情とその声の大きさを、過去に学習Uした「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」内に配置して、重森は受け取っているのです。
傍から見ていたら、テレビを見て脅えている重森は、馬鹿みたいです。「テレビの俳優が怒っているのはお前ではなくて、別の役者にたいしてだ。どうして自分が怒られていると解釈する?」と突っ込みが来そうです。
しかし、脅えている重森にとっては、俳優の怒りの表情と大声は、リアルに自らを恐怖に陥れるものとして、経験されているのです。非常にやっかいです。
■「思い込み」から離脱する方法
重森は、この、過去に学習されてしまった「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を「思い込み」と読んでいます。過去に学習されてしまったとはいえ、その「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」は、現在と未来における、重森の世界の見え方に大きく影響を与え続けます。ていうか、世界は過去に埋め込まれた「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」にもとづいて、感じられるしかないので、変な「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に呪縛されると、お先真っ暗です。だから重森は、自分を不幸にする「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」から、なんとかして逃れたいと思います。
ここで学習Vという考え方を見ていきたいと思います。学習Vとは、 「自らがあるコンテクストに盲目的に依拠したうえで事象の意味付けを行っていることを自覚し、自らが呪縛されるべき(依拠するべき・身を任せるべき)別のコンテクストを取捨選択できるようになること」(ベイトソン 2002:412)と要約できると思われます。つまり、学習Uの段階で埋め込まれてしまった「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」から、脱却し、かつ、あまた存在している別の「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に自らを能動的に呪縛させることが、学習Vだと言えます。
ベイトソンは、学習Vを達成するために有用な戦略を4つ提示しています。彼は、なんらかの「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」に呪縛されている患者を、その「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」から脱却させるためにサイコセラピストが用いる戦略を紹介しています。
ベイトソンは、重森が使う「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」という言葉の代わりに、「前提」という言葉を使っています。ベイトソンによると、セラピストは、患者に染み付いている「前提」の入れ替えに挑戦する者だそうです。しかし、「前提」は患者にとって自覚されにくく、自己妥当性を持つものなので、これは至難の業だそうです。そこで、セラピストは次のような戦略を使うとのことです。
@患者が依拠する前提とセラピストの前提との衝突を図る。
A患者を、診療室の内外で、患者自身の前提と衝突するような行動をとるように導く。
B患者の現在の行動をコントロールしている諸前提間(患者を呪縛している前提はひとつではないということかな?)の矛盾を引き出して見せる。
C患者が持ち込んできた前提の上に乗った経験が、馬鹿げていることを、風刺画のかたちで見せる。
ベイトソンは「前提」から逃れる方法を、上記のように箇条書きしているだけなので、具体的なセラピーの様子は分かりません。しかし、いずれにせよ、セラピストは、患者が暗黙の前提としていることがらを自覚させ、その虚構性を理解させしめようとする、と言えると思います。自分はなんて馬鹿くさい「思い込み」に囚われていたのだろう、と自覚することが大事なようです。
思えば、重森の高校時代の友人は、上の4つの戦略のうち、Bの戦略を使用したと言えます。「自分は人に憎まれている」と述べた重森にたいし、その友人は「なにか憎まれるようなことをしたの?」と聞き返しました。重森はそれまで固く「自分は人に憎まれている」と無根拠的に確信していました。しかし友人の言葉を聞いて、「憎まれるようなことをした自覚がないにもかかわらず、憎まれていると思っている」という自分自身の矛盾に気付き、目から鱗が落ちるような思いがしたのを覚えています。重森を呪縛する前提には、「自分は人に憎まれている」というもののほかに、「憎まれるのはそれ相応のことをしたからだ」というものもふくまれていました。友人はこのふたつの前提を見事に衝突させたと言えます。友人はすごいやつです。セラピストな友人をもって重森は幸せです。
また、4つの戦略のうちAの戦略は、学部時代の元指導教官が重森に旅という名目で課した行動と言えます。元指導教官は、「人と人が出会うことはお互い作り変えられるということだ」と述べていました。まさしくその通りに、重森は旅に出るたびにいろいろな他者に出会って、作りかえられているような気がします。人に嫌われているという思い込みは、旅に出ると見事に打ち壊されます。旅に出ると、普段の引きこもり状態の重森から、話すときは話すよ状態の重森に変貌せざるをえません。旅先では、無口な人は損をします。移動や宿泊、買い物の際には、損をしないように、一生懸命に自分のしたいことを話さなければなりません。また、見知らぬ土地で黙ったままだと、現地の人に警戒されてしまいます。なんでもいいから喋らなければなりません。一時的に歌舞伎町ホスト状態に自分を追い詰めなければなりません。そして、そのような態度で旅先で人に接すると、人に好かれたりします。こんなことが起きるので、「患者自身の前提と衝突するような行動をとる」ことは、「思い込み」から脱却するための良い方法なのだなあと実感できます。セラピストな指導教官をもって重森は幸せです。
昔と較べて、確実に重森は、自らを呪縛する「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」から抜け出せるようになってきています。これは嬉しいことです。びくびくしないで道路を歩けるのは、幸せです。普通に散歩できることがものすごくかけがえのないことのように思えます。
しかし、まだまだ悪しき「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」から自由自在に抜けることが可能というわけではありません。したがって、これからも、旅は続けなければならないと思われます。
■旅と他者
というわけで、自分がどのような「思い込み」に呪縛されているのかを、指摘してくれるセラピストな人の存在はとてもありがたいと言えます。だから重森は随時「突っ込んでくれる」人を募集しています。
また、なにも外国にいかなくても、自分を壊して作り変えるための旅は、日常生活においてもできることだと思います。他者は外国にだけ存在するものではないからです。町に出れば、ほんとに様々な他者がいます。憑依霊や妖術の世界に生きている人々に会うのは、なかなか難しいですが、生き方や世界観の異なる人々には事欠かないと思われます。
このような人々と出会うための手っ取り早い方法は、例えば、営業だとかナンパをすることだと思われます。これらの活動は、まさしく旅そのものです。これらのことが普段からでもできるようになりたいと重森は考えております。
日常生活においてもさまざまな他者に出会いますが、日頃から出会っていると、他者の他者度は低くなっていくように思います。このことはつまり、相手と自分がどんどん同質化していく(「コンテクスト(関係付け方の見本、物語)」を共有していってしまう)ということなので、目の醒めるようなセラピスト的「突っ込み」を得るには、進んで、新たな他者に出会うようにしなければならないと思われます。
■理論の次は実践
これまで長きにわたって、ベイトソンが発明したさまざまな理論を参考にして、「思い込み」と、「思い込み」から逃れる方法のふたつについて考察してきました。ベイトソンの理論は、人間関係について、ものすごく示唆に溢れています。
しかし、理論的なことをおさえることは大事ですが、その理論にもとづいて実践することも同様に大事です。次回からは、重森が実際に町に出て、他者と出会い、自らを壊し作り変える実践をし、その模様を報告していきたいと思います。
参考引用文献
グレゴリー・ベイトソン,2000(1972),「精神とコミュニケーションの階型論」,『精神の生態学』,佐藤良明訳,新思索社