■スランプ
「理論が終わったら次は実践だー!」と偉そうなことを前回書いたのですが、結局忙しさに流されて実践らしいものはなにもしておりません。
最初は、町に出て手当たり次第に他人に声をかけて、なんでもいいから会話を楽しんでしまおうという計画をもっておりました。もっともっと初期には、町に出て綺麗なお姉さんを見かけたら声をかけ、とにかく会話を楽しみ、最後に一緒にデジカメで写真でも撮ったろうか、などという企みをもっておりました。
しかし、修士論文の構想発表会が9月18日にあり、その一週間前の9月11日に発表用のレジュメを提出しなければいけないこともあって、今はあわてて構想を練っているような状況です。これは非常にやばい状況です。町でナンパしている余裕はなさそうです。
ところが、なかなかレジュメが出来ません。苦しいの一言に尽きます。修士課程に入学して1年と約半年も経ち、さまざまな文献を読んできたはずなのに、なかなか筆が進みません。
論文の構想をスピーディーに書き上げることができないのは、あくまでも重森が人類学というものを「自分が救われるためにやっているからではないか?」と思いました。すなわち、本当に取り組みたい課題は「いかにしたら自分はもっと自由に世界を好きなように感じることができるようになるのか(今感じているリアリティから脱却するにはどうすればいいのか)?」という超自己中心的なものなので、修士論文という公共的な場では、その本来の課題を億面なく堂々とさらけだすことができないと思われるのです。
もっと具体的に言えば、重森は「自分の病的な人見知り癖と、それと連動して起こる目の痙攣と頭真っ白状態を、なんとかして治したい」という願いにもとづいて、人類学をしています。で、こんなこと修士論文の構想には書けません。書くにしても、相当加工して、間接的婉曲的な表現に書き換えないと、見れたものでありません。こんなのを大々的に表に出したら「お前、精神科行け」という突っ込みをもらいそうです。
今日も左目がピクピク痙攣しました。なんなんでしょうねこれは。くやしいから左目をつぶって道を歩きました。
■研究と実存
こんな不純な動機をもって人類学をしているからか、いざ構想を練る段階になると、いつしか文章は、「自分救済計画」と呼ぶしかないような内容になってしまいます。重森は現在、ケニア東海岸における妖術信仰を研究対象にして、それについて修士論文を書こうとしているのですが、いざ構想を書き始めると、「妖術にたいして否定しようがない現実性(リアリティ)を感じている人々は、どのようにしたらその現実性(リアリティ)から逃れることができるのか?」とか「人が目下感じているところの現実性(リアリティ)を根底から入れ替えるにはどうすればいいのか?」とか「人が別の現実(リアリティ)に生きることができるようになる条件とはなにか?」という、「人格改造マニュアル」的なセリフばかり出てきてしまいます。
これらの問いは、そのまま主語と、いくつかの用語を書き換えれば、全部重森の願望を表現しています。すなわち、「他人にたいして否定しようがない恐怖の現実性(リアリティ)を感じている重森は、どのようにしたらその恐怖の現実性(リアリティ)から逃れることができるのか?」とか「重森が目下感じているところの現実性(リアリティ)を根底から入れ替えるにはどうすればいいのか?」とか「重森が別の現実に生きることができるようになる条件とはなにか?」というふうに書き換えることができます。
おまけに、これまでこの場において展開してきたベイトソンの学習理論を、修士論文にも盛り込もうとして、話がこんがらがっている状況です。
こんな自分色満載の修士論文構想を読まされたら、「お前、ケニアの妖術信仰をだしにして、結局自分を変えたいんだろ!」という突っ込みをもらってしまいそうです。
まったくその通りなので、もし重森はそのような突っ込みを受けたら静かに頷くしかありません。「そうです。私は強くなって人生に満足して微笑みながら死にたいのです! そのために研究しているのです! 具体的には、道を歩いても目が痙攣しなくなったり、緊張と恐怖で頭真っ白になるのを止めたいのです!!」と答えるしかなくなります。
しかしいやだよねーこんな人。パンツぐらいはけよ。そう言われかねません。書いていてトホホな気分になってきます。もういい加減、お前自分に囚われるのはやめろ、と言いたくなります。
■見当違い
今日も歩きながらずっと考えていました。「俺が今やっていることは果たして俺の症状を緩和するものなのだろうか?」と。「いやまてよ。むしろ俺がやるべきことは、人見知りだとか、目の痙攣だとか、緊張とか恐怖とか、そういう辛気臭い病的な話題からいい加減におさらばして、なんでもいいから仕事を見つけて、自分で働いて生活していくことではないのか?」と。
現在、重森は学費や生活費を奨学金に頼っています。バイトは全然していません。で、奨学金がなくなると、親のすねをかじっている状況です。いわゆるパラサイトシングルです。「本好きの引きこもり」とも言えるような状態です。奨学金は月に8万5千円。毎日ソーメン(約100グラム約25円)とトマト(一個50円)と豆腐(一丁半85円)とつるむらさき(三分の一把33円)の生活です。
修士論文の構想が、どうしても自分救済計画チックになってしまうのは、研究をする重森を動かしてる原動力が「自分が楽になるためにはどうすればいいのか」という疑問だからです。この疑問は、思えば高校時代から重森を動かしてきた起爆剤のようなものでした。突き動かされるようにして、重森が、周囲の人々が絶対に読まないような小難しそうな本に貪りついていたのは、ひとえに、自分自身を救済するためでした。
この「自分を救いたい」という強烈な問題意識は、そろそろ捨てたほうがいいのではないかと思ったりします。なぜかというと、「自分を救いたい」と思っていること自体が「自分はいまだ救われていない」という確信を裏付けてしまい、重森が目指している「救われている状態」から、かえって重森を遠ざけていると考えられるからです。
自分はまだ普通の状態ではない。治すべき欠陥にあふれている。だから、本を読み研究して自分を変えなければならない。そのためには、バイトも就職もせずに、毎日図書館にこもって文献に目を通さなければ。リアリティの変容となんらかの虚構に呪縛されて生きる人間という存在について、もっと知見を増やさなければ。
このような状態は、重森が目指している理想の状態、自分が救われていると思える状態から、かえって重森を遠ざけているのではないでしょうか。重森が目指す理想の状態とは、道を歩いても目が痙攣せず、人に会っても緊張と恐怖に飲み込まれず、普通に働いて、毎日を淡々と生きることです。普通の生活をすることです。ですが、上記のような状態は、むしろ重森をどんどん「パラサイトシングル的引きこもり」にしていくだけではないでしょうか。
自分で働いて金を稼ぎ、その金で家賃とか食費とか交際費とか被服代を支払って、こつこつと地道に生きていくこと。重森が取り組むべき課題はこれではないか。このような状態の自分になるために、引きこもるのではなく、重森は町に出て人と出会って、働くべきではないか。
■実践
前回から重森が言い出した実践という言葉は、実際に他人に会ってなんらかのコミュニケーションをすることを指しています。最初、重森は持ち前のコンプレックスのために、綺麗な女性に声をかけてお話しようという計画を立てていました。
でも、真の実践とは、なんでもいいから仕事を見つけて働いて、自分の生活を自分で維持していくことではないでしょうか。いわゆる社会的自立ってやつです。
思えば、大学時代に、抗不安剤を飲みつつ単発の肉体労働のバイトをして、終わったあとに3000円をもらったときはものすごく嬉しかった。自分で働いて得たお金というのはこんなにも自分を感激させるものなのか、と思いました。
人類学はあくまでも自分が助かるために参考にしていた教科書でした。教科書を読んでものごとの仕組みがある程度分かったら、次は実習をするのが筋でしょう。重森は実践に踏み出さねばならない時期に来ているようです。
昨日、ヤフーで就職活動のサイトを見ていました。掲示板に就活中の学生がいろいろ書き込んでいます。どこそこの会社は紳士的で良い、とか、ベンチャー企業には行くな、とか、さまざまな情報に溢れていました。
一日13時間あまりも働いて、残業手当なしの人は、きついきつい、と書き込んでいました。
みんな自分で働いて生きているので羨ましい、私も早くそうありたい、と思いました。汗水たらして働いている人をリスペクトです。