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第十一回/リアル

■リアル

今回は、リアリティーについて考えてみたいと思います。

以前、重森は「イタコの嘘を暴く」という趣旨のテレビ番組について書きました。あれから何日か経ったあとに、ちょっと思いついたことがありました。

イタコには3種類あるかも、と思ったのです。

1、マジで霊はいると考えてそれを自分に降ろそうとしているイタコ。

2、霊なんかいるわけねーだろと思っているくせに、ビジネスのため霊を降ろす演技をしているイタコ。

3、霊の存在に関して半信半疑で、その存在について疑いつつも、もしかしたらいるのかもと思い、霊を降ろそうとするイタコ。

あのテレビ番組に出ていたイタコは、上の分類で言うと、2のタイプだと思われます。イタコは、テレビ局の人にマリリン・モンローの霊を降ろしてくれと頼まれ、カメラが目の前で回っている間は、頑張って(イタコが思い描くところの)マリリン・モンローに成りきっていたのですが、カメラが目の前からなくなると、その途端に素に戻って、海鮮料理をホテルのフロントに電話で頼みました。イタコは1人になると、かなりゆったりしまくりでした。

イタコがマリリン・モンローを降ろしてくれるよう頼まれた部屋は、ホテルの一室です。そこには実は隠しカメラが設置されていました。その部屋から、テレビ局のスタッフたちがカメラを持って出て行ってしまうと、イタコは普段のおばさんに戻って、海鮮料理を頼んだのです。

そもそも、マリリン・モンローの霊を降ろしたくせに、日本語を話す時点で、胡散臭いのですが、イタコはまんまとテレビ局の思惑に引っかかってしまったのでした。きっと、この番組を見た人々は「やっぱ演技じゃん」と結論するでしょう。カメラが目の前からなくなった途端、リラックスして自分のしたいことをし始めるのは、計算しているからに違いないというわけです。演技してたのね、と、イタコのこの変わりぶりを見た人は思うでしょう。

しかし、なんらかの行為を「演技だ」と断定することは、どのような条件がそろったときに初めて可能になるのでしょうか?

■リアリティーを判定する手段

あのイタコは、もしかしたら本当にリアルにマリリン・モンローの霊を感じていて、それが自分の中に入っているように実感していたかもしれません。

しかし、たとえそうだったとしても、そのことを確認する絶対的な手段はないと考えられます。イタコが感じるリアリティーを、直接我々も感じることはできません。そこで、なんらかの条件・仮説・基準を設定して、その条件をイタコの動作に適用して、イタコのリアリティーがどのようなものなのかを判断することしか、我々にはできないと思われます。

あのテレビ番組では、次のような仮説が設定されていたかもしれません。

「もしイタコが本当にマリリン・モンローの霊を降ろしているのなら、カメラが回っていない場所でも、ずっとマリリン・モンローを降ろし続け、マリリン的行動をとるはずだ。もし、カメラがなくなった途端に、イタコの態度が豹変すれば、イタコの憑依は演技だったということになる。」

はたして、イタコはカメラが目の前からなくなると、その態度をガラリと変えてしまったのでした。

上記の仮説では、イタコの行為が演技かそうでないかを判定するための基準が、いつのまにか設定されているように思われます。「態度の豹変」がそうです。カメラを意識している間は、イタコは演技をし続けるだろう。したがって、カメラがいなくなれば、イタコは演技をやめる、すなわち態度を豹変させる、と。

まさに、イタコはカメラが見えなくなると、態度を豹変させました。カメラが回っている間は、なんだか目をつぶって、神懸っているようなそぶりを見せていました。それが、カメラが目の前からなくなると、ぷっつり見えなくなって、普段のおばさんに戻ってしまったのでした。

この時に、我々は「お前! やはり演技をしていたな!」とイタコに突っ込むことができるというわけです。

しかし、もしかすると、イタコはリアルにこの時もマリリン・モンローを降ろし続け、その存在を実感していた可能性があります。カメラが見えなくなったあとで、イタコの態度が豹変したのは、まさしく、イタコに降りているマリリンが、カメラが目の前からいなくなったことをいいことに、リラックスしたからこそなのかもしれないのです。

海鮮料理を頼んだのは、イタコではなく、マリリンだった、という可能性もあるということです。我々は、勝手に「カメラが目の前からなくなるとイタコの態度が豹変したなら、憑依は演技なのだ」という条件を設定して、その条件をイタコの行動に当てはめた上で、「ああ、やっぱりイタコの憑依は演技なのだ」という判断をするに至ったと言えます。

この条件は我々が勝手に設定したものです。イタコの憑依が演技かそうでないかを判定するために、勝手にこちらが設定したものです。どうしてこの条件が満たされれば、イタコの行為を演技と断定することができてしまうのか、実は、理由が一切示されていません。こちらが勝手に「演技している奴は、人がいなくなると、素に戻る」と思い込んでいるのです。

もしかしたら、イタコが素に戻ったように見えたのは、実は、いままでカメラを意識していた映画女優のマリリンその人が素に戻っただけだから、と言えるかもしれない。それにもかかわらず、イタコは演技をしていたのだ、とこちらが勝手に判断している可能性があるということです。

■判断の基準=思い込み

昔、重森は咳をして、友人に「その咳わざとらしい」と言われたことがあります。こっちは演技などしないで、咳を出しているにもかかわらず、友人はその咳を「わざとらしい=演技っぽい」と言うのです。

これには困りました。「演技じゃない!」とこちらが反発すればするほど、さっきの咳は演技だったことが立証されてしまいそうなので、重森は何も言い返せずに非常に悔しい思いをしました。

こっちが「今の咳は本当に自然に演技などしないで出てきたものだ」と訴えても、友人は彼が独自に設定した条件を、私の咳に適用して、それが演技かそうでないかを勝手に判断するのです。どうも重森の咳は、友人からすると、演技であると判断できるような相貌をしていたようです。咳の音、口の形、咳が出る瞬間の目のつぶり具合、その際の手・頭・背中の動き、これらの相貌が、友人が設定した「演技ではないリアルな咳」の条件に合致していなかったと思われます。そのため、重森のリアルな咳は、かわいそうに偽物の咳、演技の咳と見なされてしまったのでした。しかし、重森は演技などしておらず、むしろ苦しんで咳をしていたのですが。

他人のなんらかの行為が演技であるのかそうでないかを判断する際に、我々は、こちらが勝手に設定した基準・条件を、他人の行為にあてはめている、と考えられないでしょうか。そうであるなら、ずいぶん前に重森が行った「あのイタコはカメラが見えなくなった途端にリラックスして海鮮料理を頼んだから中途半端なイタコだ。」という批判は、単純で間違った批判ということになりそうです。重森はむしろ「あのイタコの行為は、仮にこのような条件を設定してそれを当てはめて判断するならば、演技だといえる」と暫定的にしか断言できないにもかかわらず、偉そうに「あのイタコは中途半端な演技をしている」と断言していたのです。ああ、恥ずかしい。

よく考えてみると、今回犯してしまったあやまちは、いつも重森が日常生活において犯してるものと言えます。こちらが勝手に無根拠に設定した基準・条件にもとづいて、他人の言動を判断して、文字通り勝手に傷付いたり恐怖に陥ったり、毎日大忙しです。なんらかの事象を前にして、なんらかの判断をする際に、いつのまにか動員される基準・条件・仮説は、「思い込み」そのものだと言えそうです。

いつも、「思い込み」を明るみに出してやろう、「思い込み」にのみこまれてたまるか、と気張っている割には、案外あっさりと負けてしまう自分が情けないです。

とはいえ、完全に全ての「思い込み」から自由になってしまうと、これもこれで困ります。他人に笑顔で接せられても決して嬉しがらず(笑顔を見て好感を覚えるのはそれこそそう思い込んでいるから、嬉しがるのはおかしいと考えて)、他人が「いやだ」と言っているのに、YESの意味に捉えたり(まさしくストーカー的な思考)と、迷惑な人になってしまいます。

まあ、他者の考えていることを完全に理解することはできないので、コミュニケーションにおいて、ズレはつきものだと思われます。明日もいつも通りに、独特の「思い込み」のフィルターを通して、人と関わりあうしかないのでしょう。




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