こんにちは、籾井です。それにしても暑いですねぇ…って話は先週したっけ。何かもうみんな口を開けば暑い暑いと、猫も杓子も茹だってる今日この頃ですけど、ついこないだのニュースで、京都市内の日中の気温が35℃を超えた日は、それまでの10日間で8日あったと言ってました。
ちなみに日中の気温が30℃を越える日を「真夏日」と定義しているそうなので、この気温はちょっと尋常じゃない。地球はこのままで大丈夫なのか。人間が背中の十字架を地に下ろすときがそろそろ近づいてきたのだろうか、…などと気紛れに思いをめぐらせつつ、クーラーの心地良く効いた部屋から今週も遅めの更新です。その後京都の気温の記録はさらに伸びてるのかもしれないんだけど、あまりテレビを観てないんでよく知らない。
で、唐突に。暑い夏には冷えたビール!ビールと言えば村上春樹!…ということで今週は村上春樹の短編から何か話をしてみましょう。いやそんな無理にこじつけることも無いんだけど。
それに何でビールと言えば村上春樹なのか、よく解らない方もいるかもしれないですけど、彼の小説ってやたらビールが出てきて、しかもなんだか旨そうだということで、妙にビール欲をそそられてしまう人が多いようなんです。いや、実は僕はかなりの下戸なんですけど、でも確かに飲みたくなる。まあ立ち読みででも読んでみてください…ってまた味覚方面の話になってきたな。
ええと、それで。どれについて話をしようかと今本棚を見てみたんだけど、あるはずの本が幾つかない。しかも「パン屋再襲撃」は二冊あるぞ…まあいいや、ではあるものの中から「蛍・納屋を焼く・その他の短編」という短編集を。
ところで村上春樹と言うと、そのシュールな話の展開とかからか、読み解き物なんかが良く書かれてますけど、そういうのは苦手だしあまり書くつもりはないので一応。
ではこの「蛍・納屋を焼く・その他の短編」と言う短編集ですけど、「ノルウェイの森」の下地になった短編が幾つか収録されているみたいです。「蛍」もそうだし、「めくらやなぎと眠る女」とかも。「蛍」のほうは村上春樹の短編の中でもかなり人気のある作品みたいですね。
で、そっちも確かにいいんだけど、今回は「めくらやなぎと眠る女」のほうで。
一応この短編がどんな話かざっと説明しておきます。
主人公の青年が難聴の従兄弟の少年の通院の付き添いをするんですけど、主人公が食堂で従兄弟の診察の終わるのを待っているとき、高校の頃友人の彼女のお見舞いに行ったことをふと思い出します。そしてそのとき彼女は「めくらやなぎ」の話をする。「めくらやなぎ」という柳の生えた丘があって、その上に娘がいる。そしてめくらやなぎの花粉をつけた小さなハエが彼女の耳から入ってくるせいで、娘は眠っている。そしてハエはその娘の体を内側から食べていってしまう、という話。
従兄弟の診察が終わって帰り際、難聴である事が他の人とどう違うのか、ということについて悩んでいる様子の従兄弟と話しながら、、主人公は再びめくらやなぎの話を反芻します。
…はい、あらすじまとめるの苦手です。何かこう書くとすごく暗い話みたいだけど、別に暗い話じゃないです。よく解らない、という人は新潮文庫刊、「蛍・納屋を焼く・その他の短編」を読んでみてください。…ごめんなさい。
この作品は描写とか展開とかでも僕は充分面白いんですけど、一つ、面白いところに、最後のほう、主人公ら二人がバスを待っているときに従兄弟がする映画の話があります。ジョン・フォードの「リオ・グランデの砦」について彼は話すんですけど、その映画の中に「インディアンを見ることができるというのはインディアンがいないってことです」というセリフがあると言う(実際どうなのかは知らないです)。で、従兄弟は耳のことについて誰かに同情されるたびにこのセリフを思い出す、といいます。
さっき書いたように、難聴の従兄弟は健聴者との違いについてかなり意識していて、そういう彼の、健聴者からの同情に対する態度として「インディアンを見ることが…」のセリフはなんだか説得力を持って感じられる。さらにこのセリフと「めくらやなぎ」の話を並べてみると、「めくらやなぎ」の方は、インディアンの行動原理を知ってしまって、それを知らない人達からは離れて行ってしまいつつある人の感情の表れのように感じられます。
そして、そういう溝があるのが意識できたからと言って、けっして二人が解りあえる訳ではない。何と言うか、コミュニケーションの不可能性と言うか、いやそこまで言ってしまっていいのか。で、この短編は「僕といとこは肩を並べるようにして、バスの扉が開くのを待った」という文章で締めくくられる。
そう言えばこの短編集の冒頭の作品「蛍」のラストもこんな感じです。
蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた厚い闇の中を、そのささやかな光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもさまよいつづけていた。
僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指の本の少し先にあった。
「蛍」の次に載っている短編「納屋を焼く」でもそうなんですけど、この短編集は、コミュニケーションの不可能性と言うか、しづらさというか、そういったことを意識して書かれたように(僕には)見える作品が幾つかあります。
で、この短編集が発行されたのは1984年でだいぶん前のものなんですけど、最近のものである「約束された場所で」(「アンダーグラウンド」の片割れみたいなもので、現/元オウム信者にインタビューをしたもの)では、我々がオウム真理教の起こしたさまざまな事件に対して根本的なところで結局何の判断もできずに、それが何だったのかまったく解らないまま、うやむやにしてしまっている事を問題に挙げていて。より深いコミュニケーションを図ろうとすると、それはより困難になっていく、と言った問題に対して村上さんがより意識的になっているのが見られると思います。
林医師(地下鉄サリン事件の実行犯、林郁夫氏)はそのような説得ではおそらく納得しなかっただろう。彼は(…)自分の進もうとしている道がどれだけ正しく美しいものであるかを滔々(とうとう)と説いたことだろう。そして私たちはあるいは、そのようなロジックを乗り越えられるだけの有効な説得の言語を持たなかったかもしれない。(…)そして私たちはお互いの言語を理解できぬままに、それぞれの方向に別れたことだろう。
こうやって見てみると、コミュニケーションの問題(あるいは複数のコミュニティー/集団の間での、それぞれの通念の摩擦の問題、というか)を軸に村上春樹の一部の作品を読むこともできるんではないかと。
でも、そうでなくても村上春樹の短編は大体どれも面白いです、はい。ついでにいうとこの短編集「蛍・納屋…」には七つの短編が収録されているんですけど(最後の三篇は短いものの連作)、「ビール」という単語が出てこないのは一つだけでした。「めくらやなぎ…」では、主人公は病院の食堂でビール欲を催すんですけど、そこには置いてなくて、我慢するのかと思いきや、帰りにバス停で飲んでました。改めて見てみると、どうしてこんなにビールが出てくるのか、すごく不思議だ。
ではではこの辺で。また。
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