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作家稼業なんてねえ
松本清張の長編小説に『渡された場面』というのがある。
主人公は九州に住む作家志望の青年で、とある有名作家の未完作品を盗んで発表したものが中央の文壇で認められ、そのことがもとで人生の断崖絶壁に立つことになる。
「中央の文壇で認められた」っていっても著作が出版されたわけでもないし賞を取ったわけでもなく、単に「地方の同人誌評」みたいなコーナーでちょっと紹介された程度なんだけど、青年の周囲ではもう大騒ぎで、仲間を集めての祝賀バスツアーみたいなのも企画されたりする。本人も盗作しておきながら晴れて「作家の〜です」と自己紹介してみたくなるほどに舞いあがってしまう。
私としては、別に中央に認められたり印税貰ってたりしなくても、「自分の」作品を生み出すことができている人なら誰でも「作家」だと思っている。ということは私自身も「作家の折笠です」と名乗ることになっちゃうわけだけど、なんか照れくさいのでそういう名乗り方はなかなかできずにいる。
ただ「プロ」というものは何かということになると、やっぱりそこには作品が何がしかのメディアで世に出て更に原稿料や印税といった形での収入がなくてはいけないことになる。そして、作品を受け取る側(出版社や読者)のニーズに合わせて試行錯誤もしなくてはいけなくなる。その点を考えると、文芸のみならず「アート」を追求する人間にとってはアマチュアの世界の方が純粋に自分自身の作品世界を深め広げるには適しているのかも知れない。
とは言いつつ、モノを書く人間の多くはプロを目指す。賞を取りたい。作品を本にして(自費出版とか協力出版とかは別として)出版したい。私もこっそりと、少しはそんなことを考えてもいたりいなかったり。
出版したとして、それで生計が成り立つほどの収入に結びつく例はごく少数なんだけど。他に何か職業を持ちながら、副業のような形で執筆活動を続けている人がほとんどだ。文章のメディアにおける作家の収入なんて本当に少ない。小説だけじゃなくコラムや記事を書くライターにしても、よっぽどの売れっ子にならない限りはスズメの涙ほどの収入しか望めない世界だ。
しかし収入の多い少ないに関わらず、プロになることには大きなメリットもある。それは自分の作品(または執筆そのもの)に関する責任感がいやがうえにも強くなるということだ。というよりも、相当の責任感がなければプロにはなり得ない。
アマチュアの世界でぬくぬくしている間は、どんなものをどんなスタイルで書こうと自由だし、作品を酷評されたとしてもその酷評をバネや餌にして成長するのもゴミにして捨ててしまうのもまた自由だ。プロの世界ではなくアマチュアの世界をあくまでも選ぼうとする時、その作家の生み出す結果物は、誰にも真似のできない最高の芸術作品か、どこにでもある石ころのようなもの(またはそれ以下のもの)か、極端に言えば二つのうちのどちらかになってしまう気がする。
とりあえず、自分の技量やセンスを純粋に磨きたいと考えるなら、同人誌なりネットコミュニティなり、真面目に批評(単なる感想のやりとりではなく)をしてもらえる場所を確保するのが近道だ。ホームページを持つのであれば、作品に関する意見を積極的に募る姿勢も前面に出すといい。そうすると、どんなに力のある人にも、返ってくるのは絶賛よりも酷評の方が多い(少なくとも作家本人はそう感じる)に違いない。それをどう吸収し、活かすか、だ。
なあんちゃって。
かっこつけて書いてはいるけど、自信のある作品に酷評が返って来たときなんか本当にへこむんだよね。批評をする側もアマチュアがほとんどだから、知識や認識の不足もあるし、価値観の違いとかを考えもせずに意見を押しつけたりする人もいるし、中には勝手に人の作品を書き換えちゃって「こうした方がいいですよ」なんてね。結構ストレスたまります。
だから、人間としての基本的な常識のようなものも踏まえつつ、吸収すべきものと捨てるべきものとを上手に選り分けるセンスも磨くべきなのかも知れない。「作家」として大成するには、どうも長い修行が必要なようです。
自己満足で終わるにしても「作家」は「作家」だと思っている。ただ、「プロ」と呼ばれる人たちはそれ以上のものを目指し、求められるわけだ。「プロ」の「作家」を名乗りたいのであればそれ相応のものを書くべきだし、また収入というものを再優先に考えるのであれば自分の作品世界やポリシーとかいうものはあえて後ろの方に追いやる覚悟も必要かも知れない。
とりあえず理想は、胸張って「私は作家です」と名乗れるようなものを書くことですね。照れくさいですが…。 |